清和源氏

G104:源 経基  源 経基 ― 源 満政 G601:源 満政

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源 満政 八島重宗

 正暦5年(994年)に行われた盗賊の追捕に際して、平維将(平貞盛の子)や甥の頼親,頼信らと共に武者として捜索に動員されたことを伝える記事が初見とされている。そして、藤原道長にたびたび馬の献上をしている記録が『御堂関白記』に見えていることや、上流の公家が多く住む左京北辺の一条に邸宅を所有していたことが確認されていることなどから、兄や甥などと同じく藤原道長一族に近侍する受領層の富裕な軍事貴族であったことが推察されている。また、平安時代後期に大江匡房によって記された『続本朝往生伝』には、源満仲・頼光・平維衡・致頼らと共に「天下之一物」としてその名が挙げられている。
 なお、兵庫県宝塚市にある波豆八幡神社は満政の創建と伝えられるほか、大阪府能勢町にある汐の湯温泉に湯治に出かけた記録が残るなど、当時の清和源氏の本拠地であった摂津国との関係を伺わす史跡や史料も存在している。

 右兵衛尉在任中の承暦3年(1079年)8月、美濃国において散位源国房と合戦を行ったことにより解任される。更に源義家が追討使として派遣されるが既に逃隠しており、9月には関白藤原師実に降って左獄(囚獄司の牢獄)に下された。
八島重時 八島季遠

 平安時代後期の武士・官人。無髪判官と呼ばれた。
 白河・鳥羽両院の北面武士を務めた。宮内丞,検非違使,左衛門大尉及び信濃守や相模守,大和守などを歴任した。私的武力を背景に、追討・追捕や大寺大衆の入京などに際し牽制を行ったことなどが知られる。大和守在任時の保延元年(1135年)、興福寺僧徒により参拝を拒まれたことがあった。康治元年10月卒去。

 飯富氏に関しては諸説がある。源重時の養子とされるが猶子であったかもしれない。いずれにしても飯富氏は清和源氏満政流とも縁が深いことは確かである。
 甲斐源氏逸見氏族飯富氏説は、宗季が逸見光長の養子となったことが『吾妻鏡』に記載されているが、現実には上の説と同じく猶子が正しいかもしれない。宗季が逸見を名乗った形跡はないことからも立証できる。また、曽祖父が名乗っていた飯富氏を再度、新規に称したとするよりは、曽祖父の号を正式に氏にしたと解釈するほうが無難である。
 結論として、清和源氏満政流飯富氏、甲斐源氏逸見氏族飯富氏を合わせた形が史実とされる。要するに、源忠宗の子、源季遠は満政流の源重時の猶子となった。その季遠の孫の源宗季は逸見光長の猶子になった。宗季は後に、曽祖父の「号」であった飯富を正式に氏として名乗った。しかし、後世になって、主君武田氏との結縁を望んだ子孫は、武田氏の一族である逸見氏の血族を称することで、武田家の中で優位な位置を占めようとして、逸見氏の子孫であるように系譜を改正した。

飯富季貞 飯富道悦

 平家の家人、侍大将。前線指揮から後方支援まで幅広く任務を遂行した有能な武将であった。平氏政権の後期を支えた人物。歌人としても名を残す。滝口武者から右馬少允、右衛門少尉となり、その後、検非違使を兼任。平清盛の晩年に従五位下に叙位。「源大夫判官」と呼ばれた。平清盛の側近として登場し、祐筆などを担当し家政に参画。次第に平家の知行国支配の実務を担当するようになり、財政及び領国経営の施策を企画実行するようになった。
 また、平宗盛の麾下では兵糧米の集積,運送,兵士の徴兵,訓練などの兵站部を主に担当するようになり、軍事面に進出し始める。源氏が挙兵すると平家の侍大将となって一軍を率いて、平盛澄とともに各地を転戦し、大江遠業,源義基,源義兼を討伐した。また、戦局が不利になってからも九州で平家に反旗を翻した緒方惟義,菊池隆直らを討伐した。しかし、壇ノ浦の戦いで平家は敗戦。その中で季貞も戦ったが捕らえられた。

 『勝山記』によれば、永正12年(1515年)10月17日に武田信虎は西郡の国人である大井信達・信業を攻め、大井氏の本拠である富田城を囲んだ。武田方は深田に馬を乗り入れて、道悦・源四郎や今井信房,於曽備州,小山田大和守,甘利衆らが戦死したという。
 道悦は信虎・晴信父子に仕えた飯富虎昌・昌景の実父、もしくは近親者とされる。この謀反の際に飯富源四郎という人物も戦死しており、この名は昌景の仮名と一致する。このため、この飯富源四郎が虎昌・昌景兄弟の父親にあたる可能性が指摘される。ただしこの場合、昌景の生年をかなり繰り上げる必要性があり、疑問も残されている。

飯富虎昌

 永正元年(1504年)に生まれたとされているが、生年には諸説があって定かではない。 出身地は飯富村と伝わっている。
   享禄4年(1531年)、今井信元・栗原兵庫らと共に信虎に反旗を翻したが、敗れて降参し、許されたのちは信虎に臣従した。天文5年(1536年)の北条氏綱の駿河国に侵攻や天文7年(1538年)の諏訪頼満・村上義清連合軍と戦いで軍功を挙げた。
 天文10年(1541年)、武田家宿老であり有力国人であった板垣信方,甘利虎泰らと共に信虎の嫡男・晴信を擁立して信虎を駿河に追放し、以後は武田家の宿老として晴信をよく支えた。
 軍事面では常に最前線に立ち、天文22年(1553年)に自らが守備する内山城を長尾景虎・村上義清の軍8000に囲まれた時には、僅か800の手勢で撃退した。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、妻女山攻撃の別働隊の大将を務めるなど柱石として武田氏躍進に尽力すると共に、信玄の嫡男・義信の傅役(後見人)に任命されるなど、武田氏随一の宿老として重きを成した。
 『甲陽軍鑑』に拠れば、義信と信玄父子の仲は決して良好なものではなかったとされ、虎昌は義信を担いで謀反を企んだとして捕らえられ、その責任を取らされる形で自害した[享年62]。虎昌の自害の理由には、諸説があって定かではない。虎昌と同じく、穴山信君の弟・信嘉(信邦)も連座して切腹していることから、親今川派の国人の反発という側面も指摘される。飯富家は断絶し、家臣団は山県氏の名跡を襲った弟三郎兵衛が引き継いだ。