<藤原氏>南家

F008:入江維清  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原乙麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 ー 入江春倫 F009:入江春倫

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入江春倫 入江春則

 鎌倉時代末期「太平記」によると、元弘元年(1331年)後醍醐天皇の笠置山挙兵の際に駿河国入江荘の地頭、入江春倫(入江治倫と同一の可能性あり)が、千二百余騎で討幕軍に参加している。その時の功により駿河国入江荘の地頭職を保っている。
 建武2年(1334年)の中先代の乱で、敗れて鎌倉から逃れて来た足利直義と成良親王を北条氏の軍勢から守り、手越宿まで退かせ、東下して来た足利尊氏が乱を鎮圧、その後、足利氏に属した。
 天平7年(1352年)足利氏の内紛(観応の擾乱)では、尊氏方に属し武蔵野合戦において春倫が戦死し、息子(甥の可能性あり)の入江資義(入江春則と同一の可能性あり)が高槻城を築城、居城とした。

 

 尊氏の命で高槻城を築いたという。一方、肥後入江系図によれば、そもそも高槻は近藤氏が領していた。ところが、近藤宗光は後醍醐天皇の笠置臨幸に供奉して討死し、春則が娘を妻として高槻城主になったと記されている。
 春則は観応の擾乱に際して父とともに尊氏に属し、西国に出陣した尊氏が備前国三石で軍勢を催した時、春則は一番に馳せ参じた。春則の忠節に対して尊氏は、三つ切り石の紋を付けた旗一流を賜った。それより、春則は三つ切り石を定紋として用いるようになったと伝える。
 ところで、高槻城主に関して『高槻通史』では、鎌倉期より城主は高槻氏で、鎌倉末期の当主は高槻兵庫頭泰であった。泰は嗣子をなさないまま死去したため、足利尊氏に仕えていた入江右近将監資義(【F008】)が泰の娘を娶って高槻氏の家督を継ぐことになった。しかし、尊氏は入江氏の名を用いることを命じたため、以後、嫡子は入江を称し、庶子が高槻氏を称するようになったのだという。加えて、高槻氏の家紋は「三つ輪」といい、入江氏はみずからの家紋「石畳」とを併せ用いることになった。

入江春正 入江元秀

 天文18年(1549年)、三好長慶に擁立された細川氏綱と細川晴元が激突した戦いに嫡子の元秀が氏綱方として参戦した。戦いは氏綱方の勝利となり、晴元は近江に逃走、氏綱が管領になると春正は在京して氏綱に属した。春正のあとは元秀が継ぎ、元秀は摂津城主という地理的な関係からも京都を制圧している三好党に属していたようだ。

 戦国時代には、細川氏の被官になる。しかし両細川の乱で細川氏が弱体すると勢力を強めた三好氏と行動を共にするようになり、永禄12年(1569年)1月本圀寺の変で入江春継は三好三人衆と共に足利義昭の屋敷を攻め誅死、以後は高槻城へは和田惟政が入った。
 永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、元秀は義昭の陣に参じて所領を安堵された。信長は摂津に出陣して対抗する三好党を掃討、和田惟政,伊丹親興,池田勝正らが摂津守護に任じられ、摂津の支配にあたった。翌永禄12年、三好三人衆は将軍足利義昭の住む京都六条の本圀寺を襲撃した。この事態に、池田八郎と伊丹兵庫頭は三千余騎の兵を率いて義昭を救わんと京都に馳せ上った。しかし、元秀は三好方に味方して、池田,伊丹勢を防ぐため五百余騎の兵を率いて出陣した。
 池田,伊丹らは元秀軍と当たることを避け、迂回蕗をとろうとしたため元秀はこれを追撃した。そこへ、池田八郎,同周防守,荒木摂津守らが取って返してきた。その勢いに呑まれた元秀は兵を退き、義昭に降服したが許されず高槻城を攻撃され誅死という結果となった。かくして入江氏は没落し、その後の高槻城主には和田惟政がなった。

入江景秀 入江秀升

 景秀は高槻落城後しばらく流浪していたが、勝龍寺城主・細川藤孝に召し出されて丹後に供して細川家の家臣に列した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦に際して、細川幽斎が田辺城に籠城したとき、景秀は大手口を固めて活躍した。
 弟の景光も細川氏に仕えて忠興の近習を勤め、元秀の子たちは細川家に仕えて、近世に至っている。

 高槻城が落ちたとき高槻城に籠っていたが、和田惟政は家臣である高山彦五郎(のちの右近)を使者として秀升を招き、高槻に蟄居するように進めた。そして、惟政の娘を娶った秀升は諸役を免じられて、高槻古城跡の土居のうちに住したという。子の春元は豊臣秀吉の検地にも免除地とされて大庄屋をつとめたことが、系図に記されている。以後、子孫は代々高槻に居住したという。