F008:入江維清 | 藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原乙麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 ー 入江春倫 | F009:入江春倫 | ● |
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入江春倫 | 入江春則 |
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鎌倉時代末期「太平記」によると、元弘元年(1331年)後醍醐天皇の笠置山挙兵の際に駿河国入江荘の地頭、入江春倫(入江治倫と同一の可能性あり)が、千二百余騎で討幕軍に参加している。その時の功により駿河国入江荘の地頭職を保っている。
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尊氏の命で高槻城を築いたという。一方、肥後入江系図によれば、そもそも高槻は近藤氏が領していた。ところが、近藤宗光は後醍醐天皇の笠置臨幸に供奉して討死し、春則が娘を妻として高槻城主になったと記されている。 |
入江春正 | 入江元秀 |
天文18年(1549年)、三好長慶に擁立された細川氏綱と細川晴元が激突した戦いに嫡子の元秀が氏綱方として参戦した。戦いは氏綱方の勝利となり、晴元は近江に逃走、氏綱が管領になると春正は在京して氏綱に属した。春正のあとは元秀が継ぎ、元秀は摂津城主という地理的な関係からも京都を制圧している三好党に属していたようだ。 |
戦国時代には、細川氏の被官になる。しかし両細川の乱で細川氏が弱体すると勢力を強めた三好氏と行動を共にするようになり、永禄12年(1569年)1月本圀寺の変で入江春継は三好三人衆と共に足利義昭の屋敷を攻め誅死、以後は高槻城へは和田惟政が入った。 |
入江景秀 | 入江秀升 |
景秀は高槻落城後しばらく流浪していたが、勝龍寺城主・細川藤孝に召し出されて丹後に供して細川家の家臣に列した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦に際して、細川幽斎が田辺城に籠城したとき、景秀は大手口を固めて活躍した。 |
高槻城が落ちたとき高槻城に籠っていたが、和田惟政は家臣である高山彦五郎(のちの右近)を使者として秀升を招き、高槻に蟄居するように進めた。そして、惟政の娘を娶った秀升は諸役を免じられて、高槻古城跡の土居のうちに住したという。子の春元は豊臣秀吉の検地にも免除地とされて大庄屋をつとめたことが、系図に記されている。以後、子孫は代々高槻に居住したという。 |