F007:藤原為憲 | 藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原乙麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 | F008:入江維清 |
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興津近綱 | 吉香友兼 |
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駿河国廬原郡息津(現在の静岡県静岡市清水区興津)より起こる。岡部権守清綱の子・近綱が息津六郎を称したのに始まるというが定かではない。工藤氏族は平安末期より武士として名をあげた者が少なくないが、息津氏も源頼朝の従者として息津四郎の名を残している。以後、鎌倉御家人に列し承久の乱の際には鎌倉方軍勢に加わって奥津左衛門尉が上洛したという。室町~戦国期には今川氏の被官となり、興津という地が交通の要衝にあったことから、関所を設けて関銭を徴収、これを重要な経済的基盤のひとつとした。
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父・経義が病死したのち小次郎友兼が吉香氏を継承した。友兼は駿河国第一の勇者と称され、かつて、頼朝の命によりこれも信濃一の勇者と称されていた井上光盛を討ちとった。さらに、文治5年(1189年)の奥州合戦にも出陣して頼朝に忠勤を励んでいた。 |
孕石元泰 | 孕石元成 |
永禄11年(1568年)の武田信玄の駿河侵攻によって今川氏から離反して武田氏の家臣となり、翌年(1569年)4月15日に駿河国足洗郷や遠江国各所の知行地を安堵された。元泰は朝比奈信置や岡部元信と並ぶ駿河先方衆の1人であり、武田信玄の駿河平定戦に参陣して武功を挙げ、特に同年12月の蒲原城攻略戦では信玄より感状を賜った。 |
はじめ父・元泰と共に今川氏に仕え、今川氏の滅亡後は甲斐武田氏に仕えた。武田氏滅亡ののちは浪人となった。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐において、同じく武田家旧臣であり浪人であった乾正信らとともに豊臣氏方として奮戦し、同年、その功により山内一豊に200石で召抱えられ、御使母衣の格式となった。 |