F008:入江維清 | 藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原乙麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 ー 久野宗仲 | F026:久野宗仲 |
リンク | F027 |
久野宗能 | 久野宗成 |
---|---|
初めは駿河国の今川氏に仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて兄の元宗が戦死したため家督を継ぎ、遠江国久野城主となる。永禄11年(1568年)に三河国の徳川氏に久野城を攻められると、徳川家康の家臣・高力清長の説得によって降伏した。だが、叔父ら久野一族は主君・今川氏真への忠義から家康謀殺を計画するものの宗能が肯ぜずに内紛となるが、家康の救援で鎮圧した。その後、甲斐国の武田信玄の西上作戦でも久野城を包囲されるが、城を堅守した。 |
紀州藩田丸城代家老久野家初代当主。官位は従五位下丹波守。慶長元年(1596年)父・宗朝が徳川秀忠上洛の供をした際、遺恨により三宅弥次兵衛を殺害し自害したため改易となり、本多忠勝に養われる。
|
久野純固 | |
紀州藩田丸城代家老久野家8代当主。文化12年(1815年)紀州藩田丸城代・久野昌純の子として生まれる。文政6年(1823年)父の死去により家督相続。文政9年(1826年)元服。天保6年(1835年)従五位下丹波守に叙任。安政元年(1854年)紀州沖の異国船来航を受けて、海防のために翌年田丸領度会郡五ヶ所浦,礫浦に砲台を建設する。万延元年(1860年)家老水野忠央失脚に連座して、藩政から遠のくも、文久3年(1863年)加判列に加えられ藩執政となる。慶応3年(1867年)藩政改革において対立する田中善蔵が殺害され、明治4年(1871年)に行われた実行犯の取調べで関与が疑われたが、証拠不十分で処罰されることはなかった。明治元年(1868年)隠居。明治6年(1873年)7月26日死去。 |