F008:入江維清 | 藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原乙麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 ー 天野景光 | F017:天野景光 |
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天野遠景 | 天野政景 |
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平家の家人であったが、天野郷が蛭ヶ小島に近かったこともあり、仁安2年(1167年)頃、伊東祐親の下で幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち、親交を深めた。そのため頼朝の挙兵当初から付き従うこととなる。 |
石橋山の戦いに父とともに源氏方で参戦したことが『吾妻鏡』に記されている。以後、父とともに行動していたと見られ、独自の行動として知られる初出は元久2年(1205年)の牧氏事件に際して、北条政子の意向を受けて長沼宗政,結城朝光,三浦義村らとともに将軍源実朝を北条時政の屋敷から義時の屋敷に移す使者を務めている。承久元年(1219年)に実朝が鶴岡八幡宮で暗殺された際には、供奉者の中に政景の名があり、続く三寅の鎌倉下向の際には随兵として名前が見られる。 |
天野経顕 | 天野隆重 |
天野氏が山香荘の地頭となったのは鎌倉時代のことであったが、それは代官を派遣していただけのことであった。経顕が実際に居館を構えることになったのは南北朝の争乱がきっかけであった。経顕は南朝方の武将として現地支配のためにやってきたのである。概して遠州地方は南朝に与する武将が多く、引佐の井伊氏や水窪の奥山氏などは南朝方の皇子を擁して戦い続けたつわものたちであった。経顕も子・経政とともに新田義貞の軍に身を投じ、北朝軍との戦いに参加している。その後も宗良親王の皇子興良親王を奉じて戦い続けたのである。しかし時の流れとともに南朝方の退勢は誰の目にも明らかとなり、天野氏一族内でも領地存続のためにはその方針の転換もやむなしというように変化しつつあった。すなわち、惣領家は北朝方に転じ、庶子家は南朝方に残るということになったのである。 |
安芸国の国人で金明山城主であった。大内義隆に従属し、その家臣として活躍していたが、1551年に大内義隆が陶隆房の謀反によって殺害される(大寧寺の変)と毛利元就に従属した。隆重の母は毛利氏の宿老・福原広俊の娘であり、妻は福原貞俊の妹だったため毛利元就から厚い信頼を受けた。この謀反の際に弟の天野隆良は、大内義隆に最後まで付き従い討死している。 |
天野元信 | 天野隆良 |
兄の天野元明の養子となり、天野氏の家督を継ぐ。岳父の熊谷元直の影響を受けたのか切支丹であった。1600年の毛利氏の防長移封後に、毛利輝元は萩城を築城することとなった。その工事で、益田元祥の家臣が工事用の石材を盗んだとして争い、萩城の工事スケジュールに大幅な遅延をきたすこととなる。結果、1605年に萩城築城の遅れ(益田元祥との権力争いの側面もある)を口実に岳父の熊谷元直他10名とともに処罰され、天野元信も処刑された。主君の毛利輝元からキリスト教の棄教を命じられたが応じなかったためとも言われている。天野元信は熊谷元直ともども、キリスト教の殉教者として現在も扱われている。 |
永正8年(1511年)、安芸国の金明山城を居城とした天野元貞の次男として生まれる。幼少の頃から、周防国や長門国の大名・大内義隆の近習として仕えた。 |
天野元祐 | 天野興定 |
天文20年(1550年)9月1日、大寧寺の変で大内義隆が自害した際に、元祐の父・隆重の弟である天野隆良も義隆に殉じた。隆良に男子はいなかったが、女子が1人いたため、毛利元就は隆良の娘を元祐に娶せ、婿養子として家督と周防国吉敷郡大内村の内の60石の知行を元祐に継がせた。 |
父同様、近隣で勢力を誇っていた大内義興の偏諱を受けて興定と名乗る。天野氏は安芸に土着する国人領主で、毛利氏や宍戸氏などとは元々同格の立場である。代々周防国の大内氏の影響下にあったが、出雲国の尼子経久の勢力が安芸に浸透してくるようになると、離反し尼子氏へ属したが、勢力を盛り返した大内義興の攻撃を受け、滅亡寸前にまで追い込まれる。しかし、毛利元就の取り成しもあって大永5年(1525年)に降伏が許され、以後は親大内・親毛利の立場を貫いた。 |
天野隆綱 | 天野元定 |
天文年間に隆綱は大内義隆の許で人質時代を過ごし、大内義隆から偏諱を受け隆綱と名乗った。またこの時、同じく大内氏の人質時代を過ごしたことから毛利隆元との親交を深め、天文18年(1549年)には隆元と兄弟の契約を結んでいる。 |
安芸国賀茂郡志芳庄の米山城を本拠とした国人・生城山天野氏当主である天野興定の子として生まれる。天文10年(1541年)に父・興定の後を継いだ兄・隆綱が厳島の戦いの直後の弘治元年(1555年)11月27日に死去。隆綱には嗣子がいなかったため、毛利元就の推挙により弘治2年(1556年)10月に元定が家督を継ぐ。 |