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天野虎景 | 天野藤秀 |
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虎景は犬居谷一帯を領域支配していた遠江天野氏の人物であり、天野民部少輔景貞の子である。本来の天野氏の惣領は安芸守を名乗る系統であったが、戦国期に駿河今川氏の遠江支配が進むに従い、今川氏と結びついた父・景貞ら宮内右衛門尉を名乗る系統が台頭していった。永正13年(1516年)冬から翌年8月にかけて勃発した今川氏親と斯波氏との抗争では、8月9日に斯波氏の援軍として遠江に侵攻していた信濃の軍勢を景貞ら天野氏が山中大滝合戦にて撃退した。虎景は父ら一族と共にこの合戦に参加しており、今川氏親から叔父・孫四郎景義と共に戦功を賞された。 |
遠江天野氏の諸系図記録類には「藤秀」の子を「景貫」とされているが、「藤秀」と「景貫」は実際には同一人物で、実名は「藤秀」が正しいとされる。 |
天野景康 | 天野信景 |
藤秀は元々今川氏・徳川氏に従属していたが、元亀3年(1572年)10月に武田信玄による織田・徳川領国への侵(西上作戦)が開始されると武田氏に降伏し、嫡男である景康を人質として差し出した。 同7年(1579年)8月には甲斐国江草郷(現・北杜市)や八代郷(現・笛吹市)などで新たに知行を宛がわれた。 |
名古屋城下南大津町に生まれる。寛永元年(1624年)頃、山城国に住していた祖父・孝信の代に尾張藩に仕え、次男であった父・信幸は進物番,納戸を経て金奉行や町奉行を歴任し、450石となっている。信景は父の没後、貞享元年(1684年)に家督を継ぎ、寄合,鉄砲頭となる。享保8年(1723年)に病のため職を辞し、同15年(1730年)には剃髪して隠棲する。 |