<藤原氏>南家

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天野虎景 天野藤秀

 虎景は犬居谷一帯を領域支配していた遠江天野氏の人物であり、天野民部少輔景貞の子である。本来の天野氏の惣領は安芸守を名乗る系統であったが、戦国期に駿河今川氏の遠江支配が進むに従い、今川氏と結びついた父・景貞ら宮内右衛門尉を名乗る系統が台頭していった。永正13年(1516年)冬から翌年8月にかけて勃発した今川氏親と斯波氏との抗争では、8月9日に斯波氏の援軍として遠江に侵攻していた信濃の軍勢を景貞ら天野氏が山中大滝合戦にて撃退した。虎景は父ら一族と共にこの合戦に参加しており、今川氏親から叔父・孫四郎景義と共に戦功を賞された。
 天野氏は今川氏輝の代の享禄・天文初期に今川氏の領主権介入に反発して離反した。しかしその後、虎景は景義と共に天文6年(1537年)4月に今川義元の遠江見付端城攻めに参加しており、翌年には当時の惣領で虎景の甥である天野与四郎(兄・宮内右衛門尉の子)が今川氏に帰参を赦された。これにより惣領・与四郎の元で再び今川氏の従属国衆となった。
 その後同12年(1543年)以降に与四郎が死亡したため、虎景が天野氏惣領となった。同14年(1545年)の第二次河東一乱では駿河狐橋合戦に同心・被官を率いて参陣し、被官の戦功を今川義元に上申している。この時、安芸守系統の天野景泰も参陣して虎景とは別に感状を与えられており、宮内右衛門尉系と安芸守系を並立させることで今川氏が天野氏を統制下に置こうと図ったとされる。
 その後、虎景の活動を示す史料はなく、同16年(1547年)7月には嫡男・犬房丸(後の天野藤秀)に虎景の知行が安堵されていることから、天文14年8月から16年7月の間に死去したとみられる。この時犬房丸は幼少であったことから天野氏惣領職は安芸守系統の景泰に安堵され、虎景の同心・被官は景泰に付属された。

  遠江天野氏の諸系図記録類には「藤秀」の子を「景貫」とされているが、「藤秀」と「景貫」は実際には同一人物で、実名は「藤秀」が正しいとされる。
 戦国期の遠江天野氏は駿河今川氏傘下の国衆として存在し、「犬居三ヵ村」を中心とする犬居谷一円を領域支配していた。また、天野氏本来の惣領家である安芸守(七郎)系統と宮内右衛門尉(四郎)系統の二派が存在し、両者の間で頻繁に惣領の交替が行われていたという。藤秀の父・虎景は天文16年(1547年)7月までに死去し、同月に藤秀に今川義元から父の知行を安堵された。しかし藤秀自身が幼少であり宮内右衛門尉系統に他に有力な人物が存在しなかったことから、天野氏惣領職は安芸守系統の天野景泰に奪われ、父の同心,被官も景泰の同心とされた。
 同年9月、戸田康光成敗を目的とした三河田原本宿の合戦などで功を立て、今川義元から感状を賜った。この合戦には惣領の景泰も参戦しており、その後も今川氏は両者に別々で感状や指示を与えている。今川氏としては景泰に惣領職を安堵しつつも、両者の系統を並立させることで天野氏を統制下に置く狙いがあったとされる。
 同23年(1554年)9月に今川氏の同盟国である武田氏が信濃国伊那郡に侵攻すると、天野氏と所領を隣接する遠山郷の伊那遠山氏・遠山孫次郎の武田氏への帰属を景泰が仲介した。この際に藤秀が使者として武田氏の元に赴き、伊那遠山氏の赦免を嘆願した。
 藤秀は惣領である景泰・元景父子とは度々所領を巡り対立しており、永禄5年(1562年)2月に今川氏真の裁定により藤秀の知行,代官職が安堵された。この今川氏の裁定に景泰・元景父子は不満を抱いたらしく、翌年(1563年)12月に今川氏から離反した。藤秀は今川方に残り景泰らを討伐し、今川氏より天野氏の惣領職を安堵された。これにより天野氏の二系統が並立する状態は解消され、宮内右衛門尉系統の天野氏が再び惣領となった。
 同11年(1568年)12月より甲斐武田氏と徳川氏による今川領国への同時侵攻が開始される。藤秀は今川方として奥山定友,知久兄弟と共に犬居城に籠城する一方で、翌年3月より徳川方の調略を受けて従属し、徳川家康の遠江国侵攻に協力した。しかしその一方で前年12月に下伊那から北遠に侵入した武田方の秋山虎繁を案内したともされており、武田方としても活動していた形跡がある。
 元亀3年(1572年)10月の武田信玄による西上作戦では、藤秀は武田氏に従属し嫡男・小四郎景康を甲府に人質として差し出した。その後は武田氏傘下の先方衆として徳川軍と戦い、天正2年(1574年)4月に犬居谷を徳川家康に攻められたが悪天候なども影響して良く防いだ。その後、退却する家康の軍勢を奇襲し総崩れにさせた。
 同3年(1575年)6月の長篠の戦いの際、藤秀は犬居谷の守備を命じられ領国に残留していた。戦後、徳川軍の反攻活動が遠江の各戦線にて展開され、犬居谷も武田方の二俣城の補給経路を断つために徳川軍の侵攻を受けた。藤秀は朝比奈泰方と共に光明城を守備していたが7月上旬までに攻略され、犬居谷の樽山城,勝坂城も攻略されたことから犬居谷の大半が徳川方に制圧された。しかし藤秀は犬居谷の北方の拠点・鹿鼻城に在城して犬居谷の奪還を図り、武田勝頼も藤秀ら北遠方面の戦線を維持すべく、下伊那の松島・大草衆を奥山郷に派遣した。
 その後も藤秀は犬居谷の奪還を模索し、翌年(1576年)12月に徳川軍に少なからず打撃を与え、同7年(1579年)4月にも勝頼から光明城の攻略を命じられている。その一方で犬居谷を追われて所領を失った藤秀には武田領国内で替地を宛がわれた。
 同10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると武蔵八王子城主・北条氏照を頼り、以後その配下となった。翌年(1583年)3月には下野国小山城の在番を命じられ、嫡男・景康が対佐竹氏との戦いなどで活躍した。
 没年は不詳であるが、資料上で最後に確認できるのは天正12年(1584年)4月である(天野文書)。

天野景康 天野信景

 藤秀は元々今川氏・徳川氏に従属していたが、元亀3年(1572年)10月に武田信玄による織田・徳川領国への侵(西上作戦)が開始されると武田氏に降伏し、嫡男である景康を人質として差し出した。
 景康は人質として妻子と共に甲府に滞在し、翌年(1573年)11月に武田勝頼から駿河国岡清水100貫文や甲斐国朝気郷(現・甲府市)35貫文などを知行として宛がわれた。天正3年(1575年)6月の長篠の戦いでは最前線で活躍し、勝頼から父・藤秀にその働きを賞された。長篠の戦い後に徳川軍が犬居谷に侵攻し、父・藤秀が犬居谷の大半を失陥した後も引き続き父子共に武田氏に仕えている。

 同7年(1579年)8月には甲斐国江草郷(現・北杜市)や八代郷(現・笛吹市)などで新たに知行を宛がわれた。
 天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると父と共に武蔵八王子城主・北条氏照を頼り、以後その配下となった。主に父と共に下野小山城に在番し、同12年(1584年)4月22日に小山城での佐竹氏との合戦で戦功を挙げ、北条氏直より感状を賜った。
 天正18年(1590年)の後北条氏滅亡後の動向は不明であり、甲斐国黒星野(現・大月市)に逃れて普明院を建立したとする説や駿河国岡清水に秋葉山を開創したという説がある。慶長元年(1596年)10月7日に死去。

 名古屋城下南大津町に生まれる。寛永元年(1624年)頃、山城国に住していた祖父・孝信の代に尾張藩に仕え、次男であった父・信幸は進物番,納戸を経て金奉行や町奉行を歴任し、450石となっている。信景は父の没後、貞享元年(1684年)に家督を継ぎ、寄合,鉄砲頭となる。享保8年(1723年)に病のため職を辞し、同15年(1730年)には剃髪して隠棲する。
 人となりは温厚にして博聞強記と伝えられる。特定の師はいなかったとされるが、国典は伊勢神道の再興者とされる度会延佳から、仏典は養林寺七世・単誉上人一如から受けた。朱子学を基底に置き和漢の学を究め、さらに広く仏教・博物・天文・地理・風俗などにも通じ、著書は全千巻ともいわれる一大随筆集の『塩尻』をはじめ国史・地誌・文学など多岐に亘り、『国書総目録』に収載されている書目だけで145に及ぶ。
 元禄11年(1698年)に藩主・綱誠の命によって『尾張風土記』の編纂事業が始まると、吉見幸和や真野時綱らとその任に当たった。この編纂作業は翌年の綱誠の死により中断されたが、この経験から実証学的な手法を身に付けたとされる。
 それ以後、神道や儒教・仏教への歴史的な批判や、『万葉集』や『源氏物語』の他、歌語・俗語などの言語学的検証、そして本草学・天文学といった広範な分野において、実証学的な見地から考察を加えている。
 信景の実証的な指向は、その後の本居宣長や伴信友,河村秀根などに強い影響を与えたと考えられ、平田篤胤の『俗神道大意』,谷川士清の『倭訓栞』は信景の随筆『塩尻』に負うところが大きい。
 また、南北朝時代末期の世良田氏の興亡を伝記とした『波合記』や南朝正統論に基づいた『改正続神皇正統記』も著している。
『鸚鵡籠中記』の著者である朝日重章と親交があり、信景は重章から兄事され、45歳で没した重章の臨終に立ち会った。