| F017:天野景光 | 藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 入江維清 ― 天野景光 ― 毛利元政 | F024:毛利元政 | ● |

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| 毛利元政 | 毛利元俱 |
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永禄2年(1559年)、安芸国の戦国大名・毛利元就の7男として誕生する。母は乃美大方で、穂井田元清,小早川秀包とは同腹の兄弟。生城山天野氏は、隣接する金明山天野氏同様に鎌倉時代の天野遠景を祖とする安芸国の国人であったが、永禄12年(1569年)、天野氏当主の天野元定が死去した後、家督をめぐって家中に内紛が起きた。これに際し父・元就がこの内紛に介入、7男である千虎丸(後の元政)を元定の婿養嗣子として家督を継がせることで事態を収拾した。 |
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父・元政に従って伊勢国に出陣しており、8月24日の安濃津城の戦いで武功を挙げて、慶長6年(1601年)10月12日に毛利輝元から称賛された。 |
| 毛利元法 | 毛利就信 |
| 慶長8年(1603年)、毛利家一門毛利元倶の長男として生まれる。寛永5年(1628年)、家臣子弟の教育のため周防国佐波郡右田に郷校「時観園」を父と共に設立する。寛永12年(1635年)、父の隠居により家督を相続する。寛永14年(1637年)、毛利就頼,益田元尭と共に加判役となり、国元留守居役として藩政を任された。寛永21年(1644年)、玉祖神社の鳥居を建立する。承応元年(1652年)3月25日死去。享年50。家督は長男の就信が相続し、次男の就直は吉敷毛利家を相続した。 |
元和9年(1623年)、右田毛利元法の長男として生まれる。元服時に藩主毛利秀就より偏諱を授与されて就信と名乗る。慶安4年(1651年)、秀就が亡くなり、その子・毛利綱広が新藩主に就任すると引き続きこれに仕え、翌承応元年(1652年)には父・元法の死去に伴い家督を相続。承応3年(1654年)、阿弥陀寺仁王門を再建する。明暦元年(1655年)、赤間関で朝鮮通信使の供応役を務める。延宝3年(1675年)、当職(国家老・執政)となり藩主・綱広に仕えた。 |
| 毛利広政 | 毛利広定 |
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貞享4年(1687年)、一門吉敷毛利就直の4男として生まれる。元禄17年(1704年)、4代藩主・毛利吉広の命で、伯父の右田毛利就信の遺跡を相続、のち吉広より偏諱を受けて広政と名乗る。宝永7年(1710年)、国許加判役(家老)となる。 |
享保4年(1719年)7月、長府藩主(前年まで清末藩主)・毛利匡広の3男として生まれる。享保18年(1733年)、急死した宗家一門右田毛利広信の家督を相続する。 |
| 毛利房顕 | 毛利親信 |
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寛政6年(1794年)、右田毛利就任の3男として生まれる。藩士・児玉親忠の養子となっていたが、文化2年(1805年)9月に実家を相続していた兄・房良が急死したため、その末期養子として実家に戻り右田毛利家当主となる。兄たち同様、当時の藩主である毛利斉房より偏諱を受けて房顕と名乗る。その後は当職として藩主・毛利斉熙,斉元に仕えた。文政2年(1819年)、宇佐八幡宮の拝殿を再建する。文政10年(1827年)、当職を辞職する。 |
嘉永2年(1849年)、長州藩士・村上惟庸の長男として生まれる。惟庸(村上兼助とも)は右田毛利家10代・毛利房顕の次男で能島村上家の養子となっていた。 |