<藤原氏>南家

F017:天野景光  藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 入江維清 ― 天野景光 ― 毛利元政 F024:毛利元政

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毛利元政 毛利元俱

 永禄2年(1559年)、安芸国の戦国大名・毛利元就の7男として誕生する。母は乃美大方で、穂井田元清,小早川秀包とは同腹の兄弟。生城山天野氏は、隣接する金明山天野氏同様に鎌倉時代の天野遠景を祖とする安芸国の国人であったが、永禄12年(1569年)、天野氏当主の天野元定が死去した後、家督をめぐって家中に内紛が起きた。これに際し父・元就がこの内紛に介入、7男である千虎丸(後の元政)を元定の婿養嗣子として家督を継がせることで事態を収拾した。
 元政は毛利氏の一門として多くの戦いに出陣し、天正6年(1578年)の上月城の戦いでは兄・元清と共に自ら軍の先頭に立ち、上月城を落城させるという大功を立てた。その後も毛利氏の中枢の一人として活動し、慶長元年(1596年)には豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。
 文禄・慶長の役や慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも参戦している。後に姓を毛利に復して、慶長8年(1603年)には周防国熊毛郡三丘に封じられた。元政は元就の抜け落ちた歯を貰い受け肌身離さず持ち歩いていたが、この年が元就の三十三回忌にあたるため、供養塔を建立し遺歯を納めた。次いで周防国佐波郡右田で1万3,000石を与えられた。毛利姓に復したものの、子の元以,元雅,就員には天野の名字を名乗らせた。
 慶長10年(1605年)の萩城築城を巡る家中の争い(五郎太石事件)に際しては、天野元信,益田元祥の言い分を調査して、毛利輝元に報告した。同年12月14日に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、元政は福原広俊に続く2番目に「毛利讃岐守」と署名している。慶長14年(1609年)4月29日、長門国萩にて死去した。享年51。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父・元政に従って伊勢国に出陣しており、8月24日の安濃津城の戦いで武功を挙げて、慶長6年(1601年)10月12日に毛利輝元から称賛された。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には毛利輝元に従って出陣。同年12月8日、輝元は毛利秀就と交代して帰国することを徳川家康から許可された輝元は、12月10日に家康へ帰国の挨拶をしてから宍戸元続を連れて帰途に就く。12月25日、家康が京都に凱旋し、徳川秀忠が徳川義直や徳川頼宣と共に河内国北河内郡岡山に在陣して大坂城の外堀の埋め立てる普請を監督することになると、秀忠は青山忠俊と板倉重宗を秀就のもとに派遣して毛利軍の協力を要請した。秀就は12月27日に元倶と繁沢元景に協力要請した。慶長20年(1615年)1月18日までに外堀埋め立ての普請が完了したため、1月下旬に秀就と秀元が徳川秀忠に帰国の挨拶をして毛利軍は上方から国元へ引き上げた。
 同年4月17日、輝元は本多正純からの大坂夏の陣への出兵要請に応じ、毛利秀元を先鋒として宍戸元続,元倶,毛利元宣,毛利元鎮らに秀元に従っての出陣を命じる。5月3日早朝に秀元が摂津国兵庫津に到着し、秀元に従う軍勢も5月7日早朝に西宮に到着し、秀元率いる毛利軍先鋒部隊は同日に長柄川を渡って大坂城の極楽橋まで進軍し、敵兵の首級140~150を討ち取って、敵船10余艘を鹵獲する武功を挙げている。5月8日に大坂城は落城し、7月に秀就が毛利氏の全軍を率いて帰国した。
 寛永2年(1625年)、藩内の領地替えにより周防国熊毛郡三丘から佐波郡右田に移る。そのため右田毛利家と呼ばれ、宍戸家に次ぐ一門家老第二席の家格となる。元倶は藩主・毛利秀就に仕え、加判役,御国留守居を務めた。寛永5年(1628年)、領内に郷校「時観園」を設立して学問を振興した。徳川家光が寛永7年(1630年)に設立した林羅山の家塾である昌平黌より2年早く、萩藩(長州藩)の藩校である明倫館が享保4年(1719年)に創立されるよりも91年早いため、天下に先立って学館を興し人材育成を図った元倶の先見性が窺えると評価されている。
 寛永12年(1635年)、家督を嫡男・元法に譲って隠居する。正保2年(1645年)3月14日に死去。享年61。

毛利元法 毛利就信
 慶長8年(1603年)、毛利家一門毛利元倶の長男として生まれる。寛永5年(1628年)、家臣子弟の教育のため周防国佐波郡右田に郷校「時観園」を父と共に設立する。寛永12年(1635年)、父の隠居により家督を相続する。寛永14年(1637年)、毛利就頼,益田元尭と共に加判役となり、国元留守居役として藩政を任された。寛永21年(1644年)、玉祖神社の鳥居を建立する。承応元年(1652年)3月25日死去。享年50。家督は長男の就信が相続し、次男の就直は吉敷毛利家を相続した。 

 元和9年(1623年)、右田毛利元法の長男として生まれる。元服時に藩主毛利秀就より偏諱を授与されて就信と名乗る。慶安4年(1651年)、秀就が亡くなり、その子・毛利綱広が新藩主に就任すると引き続きこれに仕え、翌承応元年(1652年)には父・元法の死去に伴い家督を相続。承応3年(1654年)、阿弥陀寺仁王門を再建する。明暦元年(1655年)、赤間関で朝鮮通信使の供応役を務める。延宝3年(1675年)、当職(国家老・執政)となり藩主・綱広に仕えた。
 嫡男の定道に先立たれたため、天和3年(1683年)に藩主・綱広の子の就勝を養子に迎えた。貞享2年(1685年)、十輪寺を再建する。元禄元年(1688年)、前年焼失した宇佐八幡宮本殿を再建する。元禄7年(1694年)、就勝の実兄の藩主吉就が死去したため、就勝が実家に戻り第5代藩主吉広となったため弟の吉敷毛利家の毛利就直の子の広政を養子に迎えた。
 元禄16年(1703年)12月10日死去。享年81。 

毛利広政 毛利広定

 貞享4年(1687年)、一門吉敷毛利就直の4男として生まれる。元禄17年(1704年)、4代藩主・毛利吉広の命で、伯父の右田毛利就信の遺跡を相続、のち吉広より偏諱を受けて広政と名乗る。宝永7年(1710年)、国許加判役(家老)となる。
 正徳2年(1712年)、悪化した藩財政再建を任されていた当職(国家老・執政)の志道就晴、当役・志道就保が不正により、藩財政を更に悪化させていることを5代藩主・毛利吉元に直諫して罷免させる。正徳3年(1713年)からの藩倹約令では率先して倹約に努め、藩の財政再建にあたった。正徳4年(1714年)、江戸加判役となる。享保4年(1719年)に藩校・明倫館の開設にあたる。
 正徳5年(1715年)、万役山事件が発生し、長州藩と支藩徳山藩が対立すると、清末藩主・毛利元平とともに徳山藩主・毛利元次を説得するも、不調に終わった。享保5年(1720年)、国許加判役。享保9年(1724年)、当職。享保15年(1730年)、当職辞職。享保16年(1731年)、当職に再任され、凶作による被害の救済に当たる。享保18年(1733年)3月27日死去。47歳。家督は嫡男の広信が相続した。 

 享保4年(1719年)7月、長府藩主(前年まで清末藩主)・毛利匡広の3男として生まれる。享保18年(1733年)、急死した宗家一門右田毛利広信の家督を相続する。
 寛保2年(1742年)、藩が幕府より利根川手伝普請を命じられ、総奉行を務める。延享4年(1747年)と宝暦2年(1752年)に江泊において改作(干拓)を行う。宝暦元年(1751年)、同母弟の毛利匡敬(のちの毛利重就)が長州藩主を相続したため、弟に仕えることとなる。
 宝暦3年(1753年)、重就に当職に任命され、支藩から養子として藩主に迎えられ、宗家の一門家老たちと対立しがちだった重就を補佐した。宝暦4年(1754年)に一旦、財政再建の任に堪えないと職を辞職すも、同年加判役となる。当職辞任は、同年重就に批判的であった一門家老阿川毛利広漢が処罰されたことに対する藩内の批判を考慮してのものであった。宝暦8年(1758年)、藩債の増加による藩財政悪化を受けて当職に復帰する。宝暦11年(1761年)、宝暦検地を実施し、増収入は藩の財政に繰り入れず新たに設けた撫育方の収入とし、開作や殖産興業の資金とした。明和6年(1769年)8月26日死去。享年51。

毛利房顕 毛利親信

 寛政6年(1794年)、右田毛利就任の3男として生まれる。藩士・児玉親忠の養子となっていたが、文化2年(1805年)9月に実家を相続していた兄・房良が急死したため、その末期養子として実家に戻り右田毛利家当主となる。兄たち同様、当時の藩主である毛利斉房より偏諱を受けて房顕と名乗る。その後は当職として藩主・毛利斉熙,斉元に仕えた。文政2年(1819年)、宇佐八幡宮の拝殿を再建する。文政10年(1827年)、当職を辞職する。
 天保5年(1834年)、家臣が房顕と嫡男・元寿の2派に分かれて対立し、家政の乱れを理由に加判役を免じられる。天保6年(1835年)、不仲であった嫡男の元寿を病弱を理由に廃嫡する。のち、房顕の正室の姉(または妹)を母とする毛利元亮(元敬とも、吉敷毛利房謙の次男)を養子として家督を譲り、隠居する。天保13年(1842年)11月5日没。享年49。
 元敬(元亮)の跡は、房顕の実子で能島村上氏に養子入りしていた村上惟庸(亀之助、兼助)の子・毛利親信が継ぐこととなる。また、廃嫡された実子の元寿は明治4年(1871年)に分家し、明治15年(1882年)に68歳で没した。 

 嘉永2年(1849年)、長州藩士・村上惟庸の長男として生まれる。惟庸(村上兼助とも)は右田毛利家10代・毛利房顕の次男で能島村上家の養子となっていた。
 祖父・房顕の跡を継いでいた毛利元亮(元統)の養子となる。藩主・毛利敬親より偏諱を受けて親信と名乗る。慶応2年(1866年)、幕府による第二次長州征討を受けた際には、総督として石州口防衛にあたる。慶応3年(1867年)、藩主・毛利敬親の命で、藩兵を率いて入京。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに参加し勝利を収める。北越戦争,会津戦争にも参加して戦功を立てる。明治元年(1868年)、朝廷より禁裏守護の功績を賞される。
 大阪で仏式兵法を伝習し、明治3年(1870年)、藩費でフランスに留学、私塾で法律学を学ぶ。明治6年(1873年)には、岩倉使節団としてフランス入りした木戸孝允とパリの歯科医に通ったことが『木戸孝允日記』に記されている。明治7年(1874年)に帰国し、明治11年(1878年)に第百十国立銀行が開設されると頭取となる。その後、肺結核に倒れ、下関で療養に努めていたが、明治18年(1885年)5月23日に死去した。享年37。
 家督は、養父・元亮の子の祥久が相続し、親信の戊辰戦争の功績により、明治30年(1897年)に男爵に叙された。