<皇孫系氏族>天武天皇後裔

TS07:高 惟重  高階峰緒 ― 高階業遠 ― 大高惟頼 ― 高 惟重 ― 高 師氏 TS08:高 師氏


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高 師氏 高 師重

 父の後を継いで足利家時,貞氏の執事として仕える。家時が自害する際、後事を託され書状を遣わされた。室町時代前期の武将今川貞世(了俊)が著した『難太平記』によると、書状は師氏の孫の高師秋が所持しており、足利直義に伝わったらしい。
 貞氏の代、弘安9年(1286年)3月2日に鶴岡八幡宮両界供僧職安堵を教意に伝える旨の奉書を発給する。その他の執事奉書とは違って足利氏当主の袖判がないが、これは貞氏が年少でまだ自身の花押を有していなかったからであると考えられる。ここから、師氏は被官の中でも最有力者であったと考えられる。
 亡くなる正安3年(1301年)まで執事を務め、後を子の師重が継いだ。

 

 父の後を継いで足利貞氏・尊氏に仕える。正安3年(1301年)12月には師重が執事として活動していたが、徳治3年(1308年)には兄弟の師行が執事として活動していて、元応2年(1320年)には再び師重が執事として活動している。その後は長幸康と継母観阿・子の師連の相論に対し裁許を下すなど、足利家の側近として活躍していた。
 元弘3年(1333年)までには子の師直に惣領の地位を譲っているが、これが原因で師直らと、高氏の嫡流の座を彼らに奪われた(一説によると、師秋の父・師行は師重の兄)甥の高師秋との間で確執が生まれたといわれ、師秋は観応の擾乱で師直に与せず、直義側についた。
 『太平記』には高師重は建武3年/延元元年(1336年)6月、摂津湊川で楠木正成らを破って入洛した後、比叡山に籠った後醍醐天皇方を攻撃するために、西坂本側の総大将となったが討死したとあるが、これは息子の高師久のことであり、師重とあるのは間違いである。『常楽記』によれば、康永2年/興国4年(1343年)5月24日に死去とされる。

高 師直 高 重茂

 高師重の子として生まれ、高氏の家督を継ぎ、父祖同様に足利氏の執事となる。主君である足利尊氏の側近として討幕戦争に参加し、建武の新政においては、師泰と共に窪所,雑訴決断所の奉行人に任じられている。
 建武2年(1335年)、尊氏が後醍醐天皇に中先代の乱を機に離反すると、尊氏に従って鎌倉へ下向し、建武3年(1336年)2月に九州へ逃れた時にも従い、5月の湊川の戦いでも共に戦うなど、終始尊氏の補佐に務めた。建武5年(1338年)、尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開くと、将軍家の執事として絶大な権勢を振るった。
 南北朝の動乱では、1338年に和泉石津で名将とされた北畠顕家を討ち、貞和4年(1348年)の四條畷の戦いでは楠木正行・正時兄弟らを討ち、さらには南朝・後村上天皇の本拠地吉野山へ攻め入って焼き払い、南朝方を賀名生へ撤退させるなど、南朝の主力武将達を打ち破って軍事面でも活躍した。当時の史料(上杉清子書状)から現代の研究まで一貫して、足利方を代表する名将と評されている。戦場では伝統よりも合理性を重視し、首実検の手続きを簡略化し大規模な軍事行動を可能にする分捕切捨の法を初めて採用した。他方、石清水八幡宮,吉野行宮,金峯山寺蔵王堂などの聖域を焼き討ちして当時の公家社会に衝撃を与え、痛烈な批判を浴びた。
 軍記物『太平記』では暴虐で粗野な人物という設定で創作されたため、師直は武闘派で内政能力は高くなかった、と誤解されてきた。しかし、室町幕府執事としての行政活動では、前代建武政権の後醍醐天皇が定めた先駆的な法制度を改良して幕政に取り入れ、初代将軍・尊氏のもと、室町幕府草創期の政治機構・法体系を整えた業績は大きい
 その政策の代表例としては、執事施行状の考案・発給が挙げられ、有効に機能するものとしては日本で初めて、土地給付の強制執行を導入した。かつて、鎌倉幕府では、武士や寺社が法的に獲得した恩賞(=土地)の実効支配は自助努力に任されていたため、弱小な武士や寺社では不法占拠者を追い出せず、泣き寝入りせざるを得ないことがあった。この問題に対し、建武政権の後醍醐天皇は、弱者を保護し秩序を維持するため、日本で初めて恩賞の宛行の強制執行を導入したものの(雑訴決断所牒)、その制度も手続きが煩雑すぎて円滑に機能しなかった。これを踏まえ、師直は室町幕府執事として、土地給付の強制執行の手続きを申請時・実行時の両方で簡便化した執事施行状を考案。この改良によって弱小な武士・寺社への救済がより実効的に機能するようになり、室町幕府の求心力を高めることに成功した。師直は執事施行状(=雑訴決断所牒)の他にも、建武政権の先進的なシステムを多く改良して幕府に取り入れたという。
 しかし、こうした先進的革新的な政策と師直の急速な勢力拡大は、将軍弟で事実上の幕府最高指導者である保守派の足利直義と対立を生み、なかば隠居していた将軍尊氏も巻き込んだ足利氏の内紛である観応の擾乱(1350~52年)に発展していく。
 やがて、政敵となった直義側近の上杉重能,畠山直宗らの讒言によって執事職を解任された師直は、師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃する。さらに直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲し、尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求する事態に発展した。尊氏の周旋によって和議を結んだものの、直義を出家させて引退へと追い込み、幕府内における直義ら対立勢力を一掃した。直義の出家後、師直は尊氏嫡子の足利義詮を補佐して幕政の実権を握る。観応元年(1350年)、直義の養子の足利直冬討伐のために、師直は尊氏に従って播磨へ出陣するが、この際に直義は京を脱出して宿敵だった南朝(後村上天皇)に降って手を結び、南朝・直冬と連携して師直誅伐を掲げて挙兵し、かつては味方同士であった尊氏・師直と本格的に交戦することとなった(観応の擾乱)。観応2年(1351年)、摂津国打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れた尊氏・師直は、師直・師泰兄弟の出家を条件に直義方と和睦するが、師直は摂津から京への護送中の2月26日、復讐のために待ち受けていた直義派の上杉能憲らによって武庫川畔において、師泰,師世ら一族と共に虐殺された。享年不明。なお、このちょうど一年後の師直の一周忌の命日に、その後、尊氏に敗れて幽閉されていた直義が急死しているため、師直への弔いとして尊氏が直義を毒殺したという説もある。
 観応の擾乱によって師直自身は滅んだが、その後、観応3年(1352年)9月18日に定められた室町幕府追加法第六十条によって、執事施行状(のちの管領施行状)は室町幕府の命令系統の基軸となるシステムとして定着した。のち、3代将軍・足利義満を補佐した細川頼之によって、執事と引付頭人は統合されて管領となり、師直が築き上げた執事制度は管領制度に引き継がれた。執事施行状は、南北朝時代に成立した庶民向けの初等教科書『庭訓往来』にも取り上げられ、中世の日本人にとっては、身分を問わず知っておくべき一般教養となった。

 高師重の子(異説として高師茂の子とも)。兄弟達と共に足利尊氏に仕え、建武2年(1335年)から始まる新田義貞との戦いにおいて武功を挙げた。その後も尊氏の九州落ちにも従い、多々良浜の戦いで菊池武敏とも戦い、武功を挙げている。この時のエピソードとして、尊氏は「敗れた菊池軍の捕虜が信用できない」として一部を殺害しようとしたが、重茂は「寛大な処置を示すためにも、信用して殺害をやめるべきである」と尊氏に進言して、多くの捕虜を救ったと言われている。
 その後も京都における戦いなどで武功を挙げたため、延元2年/建武4年(1337年)に武蔵守護に任ぜられ、延元3年/暦応元年(1338年)にも北畠顕家との戦いで功績を挙げた。その後上洛し、尊氏の天龍寺建立に尽力した。また、尊氏の弟・直義の与力となって引付頭人、所領訴訟に関する奉行などを務めている。興国4年/康永2年(1343年)に駿河守に叙任、翌年から従兄弟の高師冬に代わって関東執事を務めている。
 観応の擾乱での重茂の詳しい動きは不明であるが、重茂は直義と親しい仲にあったことから、直義に与していたのではないかと推測される。兄や師冬を始め高氏一族の多くがこの乱で殺害されているのに対し重茂は生き延びており、以後は鎌倉公方足利基氏の家臣として仕えているからである。
 正平23年/応安元年(1368年)、武蔵で宇都宮氏らが首謀した鎌倉府への反乱が起こった際に、重茂もこの反乱に与していたといわれている。反乱は9月に鎮圧されたが、この時に重茂は死亡したとされている。生存説もあるが、この反乱の後の重茂の消息は不明である。

 

高 師久 高 師夏

 元弘4年(1334年)1月29日、鎌倉の足利直義邸で行われた弓始では4番を務めて10本中9本を的中させている。この日、元号は建武に改元された。建武の新政では豊前権守に任じられている。
 建武3年(1336年)、湊川の戦いで楠木正成を破った足利尊氏は、次に比叡山に籠る後醍醐天皇と新田義貞,延暦寺を攻めようとし、師久を西坂本の総大将に任命して大軍を派遣した。しかし、6月20日に激戦の末、師久は新田軍に生け捕りとされてしまい、延暦寺の大衆に身柄を引き渡されてしまった。師久は大衆から神仏の敵であるとされ処刑された。
 なお、『太平記』では西坂本の総大将は高師重となっているが、師重は師久の父であり、書き間違いである。 

 父は高師直[、母は関白・二条兼基の娘で、これは師直が二条家から盗み出して師夏を産ませたものと伝わっている。師夏は容貌が美しく、心も善良で温厚だったため、尊氏の寵愛を受けた。
 観応の擾乱では尊氏・師直側に与して備後に出陣した。しかし、正平6年/観応2年(1351年)2月26日、摂津打出浜の戦いで足利直義ら南朝方に敗れた尊氏は、師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦するが、師直は摂津から京都への護送中に、怒り狂って待ち受けていた直義派の上杉能憲によって武庫川畔において、師泰,師世ら一族と共に殺害され、師夏は捕えられて助命を条件に出家するよう勧められたが拒否したため、父に殉じて殺害された。享年13。 

高 師詮 高 師冬

 観応の擾乱により観応2年/正平6年2月26日(1351年3月24日)に父・師直をはじめ多くの高一族が足利直義派の上杉能憲らによって殺害されたが、師詮は一族と別行動をしており難を逃れている。師直の後継者とされていた師夏が父とともに討たれたため、阿保忠実,荻野朝忠らによって片田舎に隠れていた師詮が後継者として擁立されたという。
 観応3年/正平7年(1352年)頃より丹後国守護、翌文和2年/正平8年(1353年)頃より但馬国守護に任ぜられた。また、『太平記』の記述から丹波国守護に就いていた可能性もある。師詮がこれらの国の守護職に任ぜられたのは、観応の擾乱で直義に味方し、いったん幕府に帰順したもののその向背が危ぶまれていた山名時氏に備えるためと見られている。
 文和2年/正平8年(1353年)5月、山名時氏が佐々木道誉と所領問題で対立、南朝に与して幕府に反乱を起こす。出雲で佐々木軍を破った山名軍は、楠木正儀と連合して6月に入り京都突入を図る。師詮は丹波・丹・但馬の国人を糾合してこれに対抗した。師詮は奮戦するも及ばず、6月12日の西山吉峯の合戦で敗れて切腹(自害)して果てた。享年不明だが10代から20代くらいと思われる。『太平記』によれば、師詮を擁立した阿保忠実,荻野朝忠の両名が師詮に自害を勧め、師詮が切腹する間に自分たちは逃れ生き延びたという。しかし、『園太暦』では県,阿保,高根ら家臣が師詮とともに切腹し、荻野の舎弟もまた討死したとしている。

 武蔵・伊賀守護大名。高師行の子で、従兄弟にあたる高師直の猶子。師直と同じく足利尊氏に仕えた。史料上の初見は建武3年(1336年)6月で、山城国西坂本の戦いに参加している。延元3年/暦応元年(1338年)、南朝方の北畠顕家が京を目指して進軍してくると、大将である養父・師直と共に各地を転戦し、顕家打倒に貢献した。
 延元3年/暦応元年(1338年)から関東の平定に乗り出し、翌年に関東執事に就任、北畠親房,小田治久と戦い、興国4年/康永2年(1343年)冬までに関東平定を成し遂げた。功績により武蔵、次いで伊賀の守護に任じられている。興国5年/康永3年(1344年)に関東執事職を従兄弟の高重茂に交代、翌興国6年/貞和元年(1345年)の天龍寺供養においても尽力した。
 正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏の次男・基氏が鎌倉公方として関東に派遣されると、上杉憲顕と協力して幼少の基氏を補佐する。しかし都で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派であった憲顕と対立することになる。敗れた師冬は正平5年/観応元年(1350年)末に鎌倉から没落して甲斐国の須沢城に逃れたが、直義派の上杉憲将や諏訪直頼の軍勢に包囲されることとなり、翌年1月17日、逃げ切れないことを悟り、同地で自害して果てた。

高 師親 高 師有

 高師直の従兄弟で父の師澄が三戸氏を称するようになり、三戸七郎師親となる。師親は叔父の高師冬の猶子(養子)となったとされ、高師冬と共に関東の足利方の中核となって活動した。
 貞和5年/正平4年(1349年)、師直がクーデターを起こして足利直義一派を失脚させ、尊氏の嫡子・足利義詮を鎌倉から京に移して政権を担当させ、入れ替わりにその弟の基氏を鎌倉に下し、関東支配を任せた(関東公方の始まり)。基氏の補佐は高師冬と上杉憲顕(直義派)が二頭体制でつとめることになり、師冬の片腕である師親は基氏の「御後見」として常にそのそばに置かれた。
 しかし翌年観応元年/正平5年(1350年)、直義は南朝と和睦し巻き返しを図った。関東でも直義派の上杉憲顕が鎌倉を離れて上野で挙兵、危険を感じた師冬は基氏を擁して鎌倉を離れ、12月25日に相模国毛利荘湯山に入った。しかしここで上杉氏と内通していた武士たちが寝返り、基氏を奪い取って鎌倉に連れ帰ってしまう。このとき直義派の石塔義房が書いた書状によると師親は討たれたとされているが、実際には半死半生の目に遭い行方不明になったようである。
 翌観応2年/正平6年(1351年)正月、養父・師冬は甲斐で殺され、畿内でも直義派が勝利を収めて2月26日に師直・師泰ら高一族の多くが武庫川で殺害された。いったん和睦した尊氏と直義だったが間もなく決裂、尊氏は南朝と手を結んで(正平の一統)、直義を攻撃し、直義は北陸を経由して関東へと逃れる。そして尊氏は大軍を率いて東海道を下り、関東から迎撃してきた直義軍と駿河・薩タ山において12月に決戦を行うことになった。このとき下野の宇都宮氏綱が尊氏方に呼応し、直義軍を背後から攻撃する態勢をとったが、『太平記』によると宇都宮軍の総大将として師親が擁立されていたことが、宇都宮軍の高麗助綱の軍忠状によって確認できる。12月15日に宇都宮を出陣した宇都宮軍は翌16日に天明の宿に入り、さらに味方を加えた。ところがここで突然、総大将である三戸七郎師親が「にわかに狂気になって自害をして死ににけり」という事態が起きた。理由は定かではないが、総大将の重圧によるものとされている。

 観応の擾乱では父の師秋とともに足利直義方の武将として行動しており、ほかの高一族とは袂を分かっている。文和元年/正平7年(1352年)に直義が鎌倉において滅ぼされた後は、鎌倉府の足利基氏に仕えた。
 貞治元年/正平17年(1362年)、関東執事(後の関東管領)として重きをなしていた畠山国清が基氏と対立して失脚すると(畠山国清の乱)、後任の関東執事として師有が指名された。
 しかし、貞治2年/正平18年(1363年)2月に出された奉書を最後に発給文書がみられなくなり、翌3月には越後にいた上杉憲顕に執事復帰要請がなされている。当時の関東執事は2名任じられた事例もあり、憲顕の関東執事就任に伴って師有が関東管領を辞したとは限らないが、『鎌倉大日記』での記載によれば、翌貞治3年2月に死去。これを裏付ける史料として、『師守記』同年5月23日条には、前弾正少弼・武田信明を「従五位上高師有卒後」に欠員となっていた陸奥守に任ずる旨の5月12日付宣旨が掲載されている。
 なお、師有以降、上杉氏以外の関東管領(執事)は任命されておらず、上杉氏以外出身の最後の関東管領(執事)となった。 

高 師英
 観応の擾乱後に、関東に下向し鎌倉府に出仕した。康安元年/正平16年(1361年)年より約2年間、鎌倉府の執事を勤める。鎌倉から京へ行き、将軍・足利義満の近習となる。 応永11年(1404年)から21年まで山城守護をつとめ、その後土佐守護に任命された。のちに佐渡守護になったともされる。