TS07:高 惟重 | 高階峰緒 ― 高階業遠 ― 大高惟頼 ― 高 惟重 ― 高 師氏 | TS08:高 師氏 |
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高 師氏 | 高 師重 |
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父の後を継いで足利家時,貞氏の執事として仕える。家時が自害する際、後事を託され書状を遣わされた。室町時代前期の武将今川貞世(了俊)が著した『難太平記』によると、書状は師氏の孫の高師秋が所持しており、足利直義に伝わったらしい。
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父の後を継いで足利貞氏・尊氏に仕える。正安3年(1301年)12月には師重が執事として活動していたが、徳治3年(1308年)には兄弟の師行が執事として活動していて、元応2年(1320年)には再び師重が執事として活動している。その後は長幸康と継母観阿・子の師連の相論に対し裁許を下すなど、足利家の側近として活躍していた。 |
高 師直 | 高 重茂 |
高師重の子として生まれ、高氏の家督を継ぎ、父祖同様に足利氏の執事となる。主君である足利尊氏の側近として討幕戦争に参加し、建武の新政においては、師泰と共に窪所,雑訴決断所の奉行人に任じられている。 |
高師重の子(異説として高師茂の子とも)。兄弟達と共に足利尊氏に仕え、建武2年(1335年)から始まる新田義貞との戦いにおいて武功を挙げた。その後も尊氏の九州落ちにも従い、多々良浜の戦いで菊池武敏とも戦い、武功を挙げている。この時のエピソードとして、尊氏は「敗れた菊池軍の捕虜が信用できない」として一部を殺害しようとしたが、重茂は「寛大な処置を示すためにも、信用して殺害をやめるべきである」と尊氏に進言して、多くの捕虜を救ったと言われている。
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高 師久 | 高 師夏 |
元弘4年(1334年)1月29日、鎌倉の足利直義邸で行われた弓始では4番を務めて10本中9本を的中させている。この日、元号は建武に改元された。建武の新政では豊前権守に任じられている。 |
父は高師直[、母は関白・二条兼基の娘で、これは師直が二条家から盗み出して師夏を産ませたものと伝わっている。師夏は容貌が美しく、心も善良で温厚だったため、尊氏の寵愛を受けた。 |
高 師詮 | 高 師冬 |
観応の擾乱により観応2年/正平6年2月26日(1351年3月24日)に父・師直をはじめ多くの高一族が足利直義派の上杉能憲らによって殺害されたが、師詮は一族と別行動をしており難を逃れている。師直の後継者とされていた師夏が父とともに討たれたため、阿保忠実,荻野朝忠らによって片田舎に隠れていた師詮が後継者として擁立されたという。 |
武蔵・伊賀守護大名。高師行の子で、従兄弟にあたる高師直の猶子。師直と同じく足利尊氏に仕えた。史料上の初見は建武3年(1336年)6月で、山城国西坂本の戦いに参加している。延元3年/暦応元年(1338年)、南朝方の北畠顕家が京を目指して進軍してくると、大将である養父・師直と共に各地を転戦し、顕家打倒に貢献した。 |
高 師親 | 高 師有 |
高師直の従兄弟で父の師澄が三戸氏を称するようになり、三戸七郎師親となる。師親は叔父の高師冬の猶子(養子)となったとされ、高師冬と共に関東の足利方の中核となって活動した。 |
観応の擾乱では父の師秋とともに足利直義方の武将として行動しており、ほかの高一族とは袂を分かっている。文和元年/正平7年(1352年)に直義が鎌倉において滅ぼされた後は、鎌倉府の足利基氏に仕えた。 |
高 師英 | |
観応の擾乱後に、関東に下向し鎌倉府に出仕した。康安元年/正平16年(1361年)年より約2年間、鎌倉府の執事を勤める。鎌倉から京へ行き、将軍・足利義満の近習となる。 応永11年(1404年)から21年まで山城守護をつとめ、その後土佐守護に任命された。のちに佐渡守護になったともされる。 |