<皇孫系氏族>天武天皇後裔

TS06:大高惟頼  高階峰緒 ― 高階業遠 ― 大高惟頼 ― 高 惟重 TS07:高 惟重

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大高重成 南 宗継

 父を南頼基とする説もある。高師氏の甥で、高師直の父の従兄弟。臨済宗の高僧・夢窓疎石と室町幕府草創期の実質的指導者・足利直義の対話を記録した『夢中問答集』を出版。武威に優れ、『太平記』では五尺六寸の大太刀を振るって奮戦する姿が描かれている。
 足利氏の被官の中でも足利一家との密着性の高い古参の人物であった。元弘3年/正慶2年(1333年)の足利尊氏挙兵以来尊氏,直義に随従。六波羅攻略で奮戦、九州下向にも従い、尊氏が征夷大将軍に任命され幕府を設立すると小侍所に任ぜられ、尊氏の天龍寺供養の際は供奉人をつとめた。暦応元年/延元3年(1338年)には、若狭国守護に任命されている。
 やがて直義と尊氏の側近高師直が対立するに至ると、重成は直義を支持し、そのため若狭守護職を没収された。しばらく直義に従っていた重成だが、後に尊氏に帰順し、再び若狭守護に再任されている。没年は『大高系図』を典拠とするものである。 

 北朝遠江守、室町幕府侍所頭人・三河守護・備中守護。室町幕府初代執事の高師直の又従兄弟。足利氏の内紛観応の擾乱では、師直・将軍尊氏派の有力武将として参戦。擾乱後は、高一族生き残りの最長老の一人となり、執事・仁木頼章に次ぐ尊氏の片腕として活躍した。なお、源姓南部氏の人とする異説もある。
 高階姓南氏は、鎌倉幕府重鎮足利氏の家政機関である政所の筆頭奉行を代々務め、下野国足利荘丸木郷の領主だった。宗継は、のちに室町幕府初代執事となる高師直とは又従兄弟の関係にある。
 鎌倉幕府滅亡後の建武政権下でははじめ京都で勤務していたが、北条氏反乱の中先代の乱(1335年)が勃発すると、足利氏の棟梁足利尊氏に供奉して東国入りした。その後の建武の乱(1336年)で尊氏が勝利し、建武政権が崩壊すると室町幕府に仕えた。
 興国7年/貞和2年(1347年)頃、備中国の守護に任じられる。その他、室町幕府では侍所頭人や三河守護などを努めたこともある。正平4年/貞和5年(1349年)後半、高師直と尊氏の弟・足利直義の間で勃発した足利氏の内紛「観応の擾乱」では、従兄弟の大高重成など直義党につく高氏庶流もいた中、宗継は師直派(尊氏派)として行動。正平6年/観応2年(1351年)1月頃には、自身が守護を務める備中国に派遣され、直義の養子・足利直冬の東進を阻止するための抑えとして配置された。しかし同年2月、師直は直義に敗れて投降し、護送中に暗殺されてしまった。
 正平6年/観応2年(1351年)12月、薩埵峠の戦いで尊氏が直義に勝ち、観応の擾乱は尊氏派(旧師直派)の勝利で決着する。翌正平7年/観応3年(1351年)1月2日、将軍尊氏は宗継の功に報いるため、陸奥国伊具荘,下総国印西荘,上総国飫富荘,相模国和田・深見両郷、および俣野彦太郎入道の跡地を宗継に与えた。擾乱に生き残った後は、尊氏の側近の一人として活躍。当時の正式な執事は仁木頼章であったにも関わらず、宗継が執事の職権である下文施行状を発給した事例が、少なくとも2点現存する。
 正平12年/延文2年(1357年)、現在の栃木県足利市に、臨済宗の高僧・虎関師錬の高弟・大道一以を開山として招き、清源寺を開基した。建徳2年/応安4年(1371年)3月29日死去。五輪塔は清源寺および足利市光得寺に所在する。