<皇孫系氏族>天武天皇後裔

TS08:高 師氏  高階峰緒 ― 高階業遠 ― 大高惟頼 ― 高 惟重 ― 高 師氏 ― 高 師泰 TS09:高 師泰

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高 師泰 高 師世

 室町幕府執事・高師直の兄弟。足利尊氏に仕え、元弘3年/正慶2年(1333年)の鎌倉幕府に対する挙兵で武功を挙げた。それにより翌年、建武の新政における雑訴決断所の奉行に上杉憲房と共に任じられた。建武2年(1335年)の中先代の乱でも尊氏に従って鎌倉に赴き、北条時行を破る。その後、新田義貞を総大将とする朝廷の尊氏追討軍を三河国で迎撃し、一旦は敗れるが、鎌倉に逼塞していた尊氏の出馬に従い、義貞の軍を箱根・竹ノ下の戦いで撃破した。
 京都へ攻め上った尊氏が朝廷軍の反攻に遭って九州へ落ちると、筑前国などの戦いで大いに活躍する。湊川の戦いでは尊氏の弟・足利直義の副将として武功を挙げた。その後も金ヶ崎城攻めや北畠顕家討伐で大いに活躍し、室町幕府創設にあたり軍事において大いに貢献した。正平2年/貞和3年(1347年)、楠木正行が挙兵すると、兄・師直と協力して翌年これを討ったうえ、南朝の本拠地である吉野に攻め入って同地を焼き払った。ただ、功労者であるのを良いことに次第に傲慢な態度が目立ち始めたともいわれる。
 このような公家や寺社と武家との対立を避けようとした直義と、武家の勢力伸張を第一と考えた師直が、幕政の主導権をめぐって対立し始めると、師直派の中心人物と見なされる。師泰・師直は、正平4年/貞和5年(1349年)、直義の追い落としに成功する。だが、一たびは出家して政務を退いた直義は、翌正平5年/観応元年(1350年)、尊氏が直義の養子・足利直冬を討伐するために中国地方へ遠征した隙に京都を脱出して南朝へ帰順し、師直・師泰兄弟討伐を掲げて挙兵した。師泰は、遠征先の石見国から京都に帰還し、尊氏とともに直義と戦ったが、正平6年/観応2年(1351年)、摂津国打出浜で敗れた(打出浜の戦い)。和議の条件として師直と共に出家し、道勝と号する。同年2月26日、直義の手で京都へ護送される途中、復讐のために怒り狂って待ち受けていた直義派の上杉能憲らによって同国武庫川畔において、師直や息子の師世ら一族ともども殺害された。享年不明。

 足利氏に仕えた高氏の一族。足利直義と対立した伯父の高師直が一時執事を辞職した際、足利尊氏に後任の執事に任命された。のちに師直が復権すると再び師直が執事に返り咲く。まもなく観応の擾乱が勃発すると、師直・師泰と共に尊氏を擁し直義と戦ったが敗れた。尊氏と直義が和睦すると師直・師泰らと共に出家するが、上杉能憲らによって武庫川畔において、師直,師泰ら一族と共に殺害された。享年不明だが30代から40代くらい。師世を直接手にかけたのは長尾清景(白井長尾家の祖)とされている。
 師泰・師世の後は師秀が継承し、高氏の血脈は保たれた。

明阿尼 国司有相

 夫は父・師泰の従兄弟で、後に高師直の猶子となった関東執事の高師冬。結婚した時期は不明で、子供もまだ儲けていなかった。正平6年/観応2年(1351年)、師冬が甲斐国で敵に包囲され自害、更におよそ1ヶ月後には、叔父の師直,父・師泰,兄弟の師世ら高一族8人が摂津国武庫川で殺害されるという悲運に遭い、出家して明阿と名乗る。
 明阿は滅亡した一族の菩提を弔うため、寺院の建立を決意し、正平10年/文和4年(1355年)8月、足利尊氏に対して、師泰の生前に自身が譲り受けていたとする菅生郷(岡崎市)を菩提所として建てる総持寺に寄進したいと申し出た。尊氏は感激し、息子の義詮にもこのことを伝え、各々明阿に対して申し出に賛同する書状を送っている。
 ところで、寄進予定の菅生郷は、師泰らが滅んだ観応2年のうちに既に師泰養子である高師秀の知行地として幕府に認められていた。実際は明阿の生活を慮った師秀が、明阿に菅生郷を譲渡していたようだが、書類上は師秀の知行地のままであった。そのため、後々、問題が紛糾することを懼れた明阿は、前述の尊氏・義詮の書状を得た後、師秀にも「去状(譲状)」を書いてもらい、更に念を入れ、足利家から寺へ菅生郷を寄進してもらうかたちを採りたいと尊氏に伝え、尊氏もこれを了承している。
 経営基盤の整った総持寺は、数年後には現在の岡崎市籠田町に完成されたと考えられている。明阿は開基となり、亡き兄弟・師世の子、自身の姪である「いち」を剃髪させ住持とした。同寺は1875年(明治8年)に到るまで尼寺であり、総持尼寺として知られた。1927年(昭和2年)、岡崎市中町に移転している。

 国司有純の子で毛利豊元の娘を母としたため、毛利家の一門的扱いを受けた。また実務能力に秀でていたため、井上元景らとともに奉行として毛利家中を取り仕切った。明応8年(1499年)に安芸国内で反乱を起こした温科国親との戦いでは首一つを討ち取る戦功を挙げ、大内義興の上洛においては毛利興元に従い、永正8年(1511年)の船岡山合戦でも戦功を挙げたことで、興元から安芸国高田郡吉田村秋貞の地を与えられた。
 毛利弘元,毛利興元,毛利幸松丸に奉行として仕え、毛利元就の宗家相続の際には、井上元景と共に宿老15人の連署状を毛利元就に届ける使者を務め、福原広俊や志道広良らと共に毛利元就の宗家の家督相続の中心的役割を担った。元就の家督相続における功績と、父の有純が元就の幼少より後見役を務めていたことから、粟田口国久の銘の小脇差を与えられている。
 享禄5年(1532年)7月13日に毛利氏の家臣団32名が、互いの利害調整を毛利元就に要請した起請文において、有相は15番目に「国司飛騨守有相」と署名している。
 天文11年(1542年)5月2日に死去し、嫡男の元相が跡を継いだ。
 後に元就はかつて自分を支えてくれた家臣の一人に有相の名を挙げている。その他、有相と共に名前を挙げられているのは志道広良,井上有景,井上俊久,井上俊秀,粟屋元国,国司有純。

国司元相 国司元武

 元相は毛利元就の嫡男である毛利隆元の傅役を務めて隆元から深い信任を得ており、天文7年(1538年)8月7日に隆元から「元」の偏諱を与えられている。
 天文9年(1540年)、出雲国の尼子詮久(後の尼子晴久)が大軍を率いて毛利領に侵攻し、吉田郡山城を包囲、攻撃してきた(吉田郡山城の戦い)。この戦いの局地戦である青山土取場の戦いで、元相は渡辺通らとともに奮戦し、尼子方を撃破する勲功を挙げた。
 天文11年(1542年)5月2日に父・有相が死去すると家督を相続。同年、周防国を本拠とする大内義隆は、吉田郡山城攻略の失敗により勢力を著しく減らした尼子氏を一挙に滅ぼすべく、尼子領へ侵攻すると毛利氏もこれに従った(第一次月山富田城の戦い)。大内勢は尼子勢を撃破し、一時は月山富田城の包囲に成功したものの、翌年、尼子方の反撃によって敗走。元相も危険な撤退戦を行い、帰還を果たすものの戦傷を負っている。
 天文19年(1550年)7月12日から7月13日にかけて元就によって安芸井上氏が粛清された直後の7月20日に毛利氏家臣団238名が連署して毛利氏への忠誠等を誓った起請文においては、13番目に「國司右京亮元相」と署名している。また、井上氏粛清後の新たな体制として元就が五奉行制を定めると、元相は赤川元保,粟屋元親,桂元忠,児玉就忠と共にその一人となった。
 弘治元年(1555年)の厳島の戦いでも奮戦。弘治3年(1557年)12月2日、防長経略が終わった後の毛利氏家臣239名が名を連ねて軍勢狼藉や陣払の禁止を誓約した連署起請文において、12番目に「國司右京亮」と署名する。
 永禄3年(1560年)には正親町天皇の即位料を調進する使者として上洛。室町幕府の将軍・足利義輝にも面会し、槍の鈴の免許を与えられた。翌永禄4年(1561年)の石見国松山城での戦いでは、児玉就忠と共に一番に城中に攻め入る功を挙げている。
 元相は永禄10年(1567年)頃に嫡男の国司元武に奉行職を引き継いでいるが、その後も奉行人としての扱いを受けていたようで、元亀3年(1572年)の毛利氏家中の掟(毛利氏掟)の制定に関して、奉行人の一人としてこれを確認している。
 天正19年(1591年)12月28日に死去。享年は77。 

 天文7年(1538年)、毛利氏家臣・国司元相の嫡男として生まれる。永禄10年(1567年)頃、父・元相の隠居によって家督を譲られ、父の後を継いで五奉行として活動。毛利輝元の守役を務めた。
 天正10年(1582年)5月に毛利元就の娘婿である上原元将が羽柴秀吉の調略を受けて織田氏に降ると、元武は上原元将と親しかった湯浅将宗に元将離反の報せを届けた。将宗は直ちに吉川元春と小早川隆景に元将離反を報じて自らの潔白を示し、元春と隆景は直ちに楢崎元兼を派遣して上原元将の日幡城を攻め落とさせた。
 嫡男の助六が早世したため、天正15年(1587年)に弟の国司元蔵に家督を譲って隠居したが、豊臣秀吉の天下統一後の文禄・慶長の役でも朝鮮に渡り戦功を挙げるなど、毛利氏の重臣として活躍した。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長移封後は、元蔵の知行地である周防国佐波郡伊賀地村に移住して暮らした。慶長15年(1610年)6月4日、萩において死去。享年73。伊賀地村の西方寺に葬られたが、西方寺は現存せず、墓地のみが残る。
 毛利輝元の守役を務め、輝元が晩年の頃も親しく交流していた。輝元と元武は酒好きで、いつも顔を合わせて飲んでいたという記録が残っている。

国司就正 国司親相

 天正19年(1589年)、毛利氏家臣である国司元蔵の子として生まれる。慶長13年(1608年)に父が死去し、その跡を継いだ。
 寛永2年(1625年)、周防国佐波郡伊賀地から領地替えされて長門国厚狭郡万倉の領主となった。同時に行われた知行改によって、家緑は2,089石から1,900石に減らされた。万倉の領主となった就正は、まず伊佐地に居館を構築し、宗吽寺(現・天龍寺)を建てて菩提寺とした。
 慶安4年(1651年)に毛利秀就が死去すると、引続き毛利綱広に仕え、当役の児玉元恒、当職の児玉元征らとともに藩政を補佐した。しかし、翌年には堅田就政に当職を譲り、寛文8年(1668年)に死去した。享年80。

 

 天保13年(1842年)6月15日、寄組藩士・高洲元忠の次男として生まれ、後に信濃、朝相と改め、毛利慶親(後の毛利敬親)より一字を賜り、親相と改めた。6歳の頃、同じく寄組藩士5600石の国司迪徳の養嗣子となり、弘化4年(1847年)に家督を継いで大組頭となった。家柄も然ることながら、親相は若い頃から聡明だったため、次第に頭角を現してゆき、文久3年(1863年)には長井雅楽の切腹検視役正使を務めている。
 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航して以来、日本では尊王攘夷論が高まり国内騒然し、文久3年(1863年)5月10日、親相は久坂玄瑞らと共にアメリカ船ペンブローク号を砲撃し、下関海峡を封鎖、朝廷からも褒勅の沙汰を賜わった。この功績により、親相は下関防備総奉行に任じられる。しかし八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、親相は家老に昇格した上で、同じく家老の益田親施や福原元僴、さらに久坂,来島又兵衛,真木保臣らと共に京都における長州藩の影響力を取り戻そうと挙兵して、翌元治元年(1864年)7月19日に禁門の変を引き起こした。
 だが、薩摩藩・会津藩連合軍の前に大敗し、来島や久坂と真木は自刃、戦乱を起した敗軍の責を負わざるを得なくなった。親相は誰よりも責任を感じ、最善の引責の方法を藩主の命によって決したいとの一念で帰藩。元治元年(1864年)8月5日である。
 やがて第一次長州征伐が始まると、征長総督(総大将)に徳川慶勝、参謀に西郷隆盛が就任した大軍が長州に押し寄せてくる。そして西郷が長州藩に対して、責任を取る形で親相ら三家老の切腹を要求したため、親相は徳山澄泉寺にて同年11月12日、自刃して果てた。享年23。親相の家老職は、益田や福原の永代家老とは違い、実力で昇進した家老職であった。
 墓所は宇部市奥万倉の天龍寺。妻と並んで墓石が建っている。死後の明治21年(1888年)に靖国神社合祀。

国司純行

 元治元年11月12日(1864年12月10日)に長州藩寄組であった国司親相が禁門の変やそれに続く第一次長州征伐の責任を取って自害すると、その養子として国司氏の家督を相続した。しかし、国司の家名は断絶となり、その名字をはばかった純行は「高田健之助」と名乗った。幕末の動乱の中、忠告隊を結成して、慶応2年(1867年)の四境戦争と呼ばれる第二次長州征伐では、九州小倉に進出し、小倉城を巡る戦いで奮闘した。その戦功を認められて、同年10月、家名の再興を許され国司純行と名乗った。翌慶応3年(1868年)に垰招魂社を創建し、養父・国司親相の霊を祀った。
 明治維新の後、国司氏の所領は大幅に削減され、奇兵隊の一部隊士が明治2年(1869年)から翌年にかけて、脱隊騒動を起こして山口県庁を包囲した際には、国司家臣の一部もこれに参加。木戸孝允の武力鎮圧の後、首謀者の大楽源太郎らとともに国司家臣の数名も処刑されている。