村上定国 |
村上義弘 |
定国は保元の乱後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路,塩飽へと進出した。そして、平治の乱後に越智大島に上陸した。この定国を村上氏の祖とする説が一般的で、定国から七代の孫義弘までを前期村上氏の時代とされる。 |
村上義弘は南北朝の争乱に際して南朝方として活躍し、応永三年(1374)に卒した。義弘は男子がなかったため、信濃村上氏から師清が入り後期村上氏の祖になったとされる。師清には三人の男子があり、それぞれ三つの島に分立させた。長男義顕を能島,二男顕長を因島,三男顕忠を来島に配置した。後世に知られる能島村上、因島村上、来島村上の村上三家が生まれたのである。 |
村上武吉 |
村上元吉 |
永正5年(1508年)、大内義興が京に上ったとき中国地方の多くの大名,豪族が従ったが、曽祖父・能島雅房もこの時京に上り、数人の子供を作った。これが能島で作った子供達との間で家督争いを行い、能島の内乱となる。幼くして祖父・隆勝を暗殺され、自らの命も危うくなったために難を避けて島を離れた。やがて能島に戻ると吉益とそれを支援する来島勢を叔父の隆重の支援も受けて破り、能島当主となった。吉益が病死すると来島通康と和を結びその娘を娶り、村上三島の頭領格となった。 天文24年(1555年)の毛利元就と陶晴賢の厳島の戦いの際には「1日だけの味方」の言葉に引かれて毛利方に加担して、以降毛利との関係を深める。しかし、以後毛利氏の周防,長門の平定に協力し瀬戸内海一の水軍勢力となり、同時に海賊行為をやめた。塩飽諸島など瀬戸内の他の水軍衆とも手を結んだ他、一族重臣である村上隆重を備中笠岡城、嶋吉利を備前児島本太城、村上武満を周防上関と瀬戸内の要衝を抑える位置に置き、通行する船から帆別銭(通行料)を取り立て、大いに栄えた。 永禄12年(1569年)、毛利の九州攻めが失敗すると大友,三好等と関係を深め、元亀2年(1571年)、毛利元就が亡くなると公然と反毛利の姿勢を取った。しかし、小早川隆景が素早く能島攻めの軍を起こすと来島、因島もこれに従ったため、孤立した能島は隆景に降り、毛利への忠誠を誓わされた。 毛利が織田信長と戦うと、村上水軍は小早川,児島,乃美水軍などと共に毛利方水軍として活躍し、特に天正4年7月13日(1576年8月7日)の第一次木津川口の戦いでは主力として大勝を収めるが(子の元吉が参戦)、信長の鉄船6隻と戦った天正6年(1578年)11月の第二次木津川口の戦いでは惨敗した。
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天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは村上水軍を率いて織田水軍を壊滅に導いた。第二次木津川口の戦いには参戦しなかったと推定される。 天正10年(1582年)頃に家督を相続し、同年3月に来島村上氏の来島通総,得居通幸兄弟が羽柴秀吉に調略されて織田側に寝返った際には、その追討に加わっている。 天正10年6月2日の本能寺の変後、天正14年(1586年)の四国征伐において村上元吉も父や弟ともに豊臣秀吉に協力しなかったため、追討されそうになった。同年には、宣教師ガスパール・コエリョに要請されて、元吉は瀬戸内海を安全に通行できるように村上水軍の旗を与え、コエリョの安全を保障した。 天下統一を進める秀吉は天正16年(1588年)に海賊停止令を出し、瀬戸内海の海賊行為も禁止された。後に海賊停止令に違反したとして、村上元吉も父とともに筑前国加布里へと追いやられた。天正20年(1592年)から始まる文禄・慶長の役では、朝鮮に出兵する将兵の輸送に活躍した。 慶長3年(1598年)豊臣秀吉が没すると、毛利輝元は村上元吉を父とともに安芸国竹原に移して4700石を与えた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦では、阿波国の蜂須賀家政の所領を攻撃。阿波国猪山城を落城せしめた。9月になると興居島に上陸後、加藤嘉明の居城・伊予国松前城を攻撃するため、17日に四国伊予国三津浜に上陸し宿陣した。しかし、同年9月17日夜から翌18日朝にかけて加藤嘉明の家臣・佃十成に夜襲を受け、元吉は戦死した(三津刈屋口の戦い)。
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村上景親 |
村上景広 |
天正6年(1578年)の上月城の戦いに出陣し、その後は兄・元吉と行動を共にした。景親は小早川隆景の下に属し、隆景が九州平定後の天正15年(1587年)に筑前と筑後の大名となると6,000石を与えられて同格おとな役(家老)となり、配下に日野景幸を付けられた。 天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡海し、同年6月5日の茂渓の戦いでは、孫仁甲が率いる朝鮮軍が、景親が守る茂渓の砦を攻めたが、景親の軍は奮戦して朝鮮軍を撃退した上で追撃し、数百人を討ち取った。その際に景親は負傷したため、輝元や穂井田元清から心配の手紙が送られている。同年12月13日にも攻め寄せた敵軍を撃退し追撃戦で敵を討ち取ったが、この時も景親は負傷して輝元や元清から書状を送られている。 文禄の役における景親の功を知った細川忠興や池田輝政は景親の武勇を見初め、家臣として誘ったが、景親は毛利元就以来の毛利氏の懇情を理由としてこれを辞退した。毛利輝元,小早川隆景,穂井田元清らは景親の忠誠を喜び、今後も聊かの等閑も無い旨を景親へ伝えている。 文禄4年(1595年)に小早川隆景が隠居すると、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。慶長2年(1597年)6月13日に小早川隆景が死去すると小早川氏を辞去して屋代島(周防大島)へと移り住んだところ、輝元の招聘を受けて毛利氏に帰参した。慶長4年(1599年)4月17日に安芸国の蒲刈両島で1,000石の地を与えられた。 慶長5年(1600年)、兄・元吉と共に水軍を率いて蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を降伏させた。その後は輝元の命を受けて元吉と分かれ、毛利軍の一員として安濃津城の戦いや大津城の戦いに参加した。関ヶ原の戦いによって毛利氏が防長2ヶ国へ移封となった後は屋代島の内で1,500石を与えられて父・武吉と共に移住し、毛利家御船手組の組頭となった。また、輝元が剃髪して「宗瑞幻庵」と名乗ると、景親も剃髪して「如真」と名乗った。 慶長15年(1610年)2月9日に死去。享年53。嫡男の八助が家督を相続したが、慶長18年(1613年)に早世したため、次男の元信が後を継いだ。
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主君・小早川隆景より偏諱を賜い景広と名乗る(隆景の生家である毛利氏にも従い、その通字を受けたとみられる元平の別名も伝わる)。 毛利氏に従い、父と共に瀬戸内の要衝笠岡城の城主として活動した。当時の注進状によえれば、織田氏との第一次木津川口の戦いにも参戦している。文禄の役では、海上戦に不慣れな藤堂高虎隊に属して、これを補佐している。 関ヶ原の戦いでは、西軍に属した毛利氏の下、乃美景継,九鬼嘉隆らと共に尾張国海上を封鎖し、東軍に属した水軍を散々に打ち破って首級107を挙げた。しかし、西軍が敗れたために毛利氏が減封となると、豊前国中津藩の藩主となった細川忠興に招かれて毛利氏を離れ、1万石を賜った。以後、細川氏の家臣として、300余人を率いて大坂の陣にも参加している。 寛永4年(1627年)死去。跡を嫡子・景則(長岡河内介)が継いだ。
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村上顕長 |
村上吉資 |
因島村上氏の初代顕長は又三郎吉豊ともいい、応永34年(1427)に播磨守護の赤松満祐が将軍家に叛いたとき、備後守護山名時熙に従って討伐軍に参加した。翌年、その功により備後国田島の地頭職を与えられている。顕長はのちに備中入道と称したが、永享6年(1434)、幕府から海の治安維持を命じられた備中入道は顕長であろう。 |
1449年(文安6年)6月、村上備中守(吉資)は伊予守護河野教通から伊予国越智郡の佐礼城を攻略した戦功の感状がある[1]。当時、河野氏は惣領家の教通が畠山持国、庶子家の通春が細川勝元の支援を受けて守護職を巡って争っていた。余談ではあるが、同年8月付の中庄金蓮寺の薬師堂建立の棟札(写し)に「領主村上備中守源吉資」の名がみえる。 ところが、河野通春が守護職となった1453年(享徳2年)5月には、細川勝元は通春の帰国に際して吉資を賞する御教書を発している。 1462年(寛正3年)3月、東寺より「村上備中」が因島地頭代に任じられている。因島は東寺の荘園であり1458年(長禄2年)に小早川氏が中庄・三庄、木梨杉原氏が重井庄を襲っており、吉資に地頭代の職を与える見返りに因島の守備と年貢の輸送を義務付けたと思われ、これを以て因島村上氏はおおやけに因島の支配者として認められたことになる。
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村上吉充 |
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因島村上氏は能島村上氏と来島村上氏に並ぶ瀬戸内海を支配した海賊衆で、父・尚吉の代より毛利氏に近い立場にあり、天文24年(1555年)の厳島の戦いの際、毛利・小早川氏から加勢を求められ、重臣・末長景道率いる因島村上水軍を派遣し、小早川水軍の一翼を担い毛利方の勝利に大きく貢献した。 その後も毛利・小早川氏に属し、弘治元年(1555年)から弘治3年(1557年)にかけての防長経略では関門海峡を封鎖するなどの活躍をした。また、弘治3年(1557年)1月12日に小早川隆景から新蔵人の官位を与えられた。大友氏との戦いがはじまると、永禄4年(1561年)の門司城攻防戦で乃美宗勝の指揮下で大友軍を撃退した。 天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは奮戦し織田水軍を壊滅させ、兵糧米を石山本願寺に運び込むことに貢献した。天正10年(1582年)に来島村上氏の来島通総が織田方に降った際にも毛利方に留まり、毛利輝元から周防国都濃郡内の400石、周防・長門の寺社半済の内の500貫などを与えられた。 吉充には子がなかったため、弟・村上亮康の子、景隆を養子に迎えたが早世したため、その弟の吉亮を後嗣に迎えている。 関ヶ原の戦い後、毛利氏の減封に伴って長門国へ移住したが、知行は1800石(2800石とも)しか与えられなかったため、当主の村上元充(吉亮の子)と別れ、因島へ戻り同地で没した。
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