<藤原氏>北家 秀郷流

FU02:足利成行  藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 藤原兼光 ― 足利成行 ― 戸矢子有綱 FU05:戸矢子有綱


リンク FU06・FU11
戸矢子有綱 阿曽沼広綱

 通称は足利七郎。足利有綱とも呼ばれる。覚仁の跡を継ぎ、東大寺領だった戸矢子保保司となり、蓬莱山に不摩城(秋葉城,部屋子城とも)を築く。
 宇治平等院の戦いでは、兄足利俊綱の子・忠綱と共に源頼政を攻めて平氏に味方したが、野木宮合戦では子の基綱,広綱と共に源氏に味方し、俊綱と忠綱を敗走させた。
 文治2年6月1日(1186年6月19日)、源姓足利氏の足利義兼と赤見山で戦うが、その最中に山鳥の矢で左眼を射られて敗走。途中の井戸で目の傷を治療したものの、石室(現・佐野市戸室町)に参籠した有綱は、老体のため馬の鞍に腰をかけて自害した。墓は当初没地に建立されたが、大永3年(1523年)に和尚尊永によって領有地の戸矢子保があった大悲山平等院大安寺に移転された。
 戸矢子保は妻の戸矢子尼、娘の加賀局を経た後に島津氏の島津忠佐によって領有された。また没地の石室は有綱の戸矢子から一字取って戸室と改名、後にこの地は有綱の末裔である佐野氏庶流の親綱によって領有され、彼は戸室氏を称した。

 足利有綱の4男・阿曽沼四郎広綱を祖とする佐野氏族。下野国安蘇郡阿曽沼(現・佐野市浅沼町)を領して阿曽沼氏を名乗ったのに始まる。
 治承・寿永の乱(源平合戦)では平家側についた本家の藤姓足利氏とは異なり、同族の山上氏・大胡氏らとともに源頼朝軍に従い、鎌倉幕府のもとで御家人となった。広綱は父の有綱、兄の佐野基綱と共に小山朝政に加勢し、志田義広や宗家である足利俊綱・忠綱父子に勝利した。広綱は文治5年(1189年)奥州合戦にも参加、その功により陸奥国閉伊郡遠野保地頭職に補任された。

阿曽沼広長 阿曽沼広秀

 広郷の子・孫三郎広長の代になって、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いのとき、南部利直に属して上杉景勝攻めの最上出陣中の留守の間に、一族の鱒沢城主・鱒沢広勝,横田城留守居役の上野広吉,平清水平右衛門の三人が首謀者となって主家に叛逆し、それに与しなかった上附馬火渡館主・火渡玄浄を討った。一方、広長は岩崎での戦いを終え遠野に引き返したが、鍋倉城を占領され領地の遠野を奪われて城に入ることができず、また、妻子は脱出の途中殺害された。
 広長は妻の実家にあたる気仙郡世田米城に走り、伊達氏等の支援で気仙勢を借り受けて三度にわたり遠野に攻め込み奪回を図るも失敗、広長は伊達領に身を寄せて生涯を終え、遠野阿曽沼氏の嫡流は断絶した。
 その後、遠野の所領を安堵された鱒沢氏らも謀叛を企てたとされ、南部利直によって切腹を命じられ滅んだ。

 安芸阿曽沼氏は安芸国安芸郡世能を本拠地とする国人。阿曽沼氏は戦国期、大内氏に属していたが、大永3年(1523年)頃に大内氏を離反して尼子氏に味方するも、大永7年(1527年)に大内氏重臣の陶興房に攻められて降伏し、再び大内氏に属した。
 天文20年(1551年)の大寧寺の変で大内義隆が討たれると、翌天文21年(1552年)に毛利元就が兄・阿曽沼隆郷の鳥籠山城を攻撃したため、阿曽沼氏は毛利氏に帰属した。この時、隆郷が隠居して広秀が後を継ぎ、同年の備後国志川瀧山城の宮光音攻撃に参加した。
 その後も厳島の戦いや防長経略などで活躍し、永禄12年(1569年)の立花城の戦いでは宝満城で大友軍の退路を遮断する高橋鑑種の援軍となった。また、永禄13年(1570年)4月17日の牛尾城攻めや天正3年(1575年)1月1日の備中国吉城攻めでは、いずれも自ら敵の首1つを討ち取るなどの活躍を見せている。
 しかし一方で、元亀元年(永禄13年・1570年)の出雲遠征では参陣を遅らせて元就からの催促を請けていたり、毛利氏から課せられた公事に対して不満を表明したりするなど、天文21年(1552年)に毛利氏に属してからも自立性を維持していた。
 また、室町幕府とも関係を持ち、永禄3年2月20日(1560年3月16日)には13代将軍・足利義輝の仲介で朝廷から中務少輔の官途を拝領していた。このこともあって、天正16年(1588年)には翌年の足利義輝の25年忌の仏事料を納め、真木島昭光,飯尾昭連,織田信秀から礼状を送られた。
 慶長2年11月29日(1598年1月6日)、死去。

阿曽沼元秀 阿曽沼元郷

 安芸国安芸郡世能荒山荘を本拠地とした国人である阿曽沼広秀の嫡男として生まれる。毛利氏家臣。
 天正20年(1592年)から始まる文禄の役では毛利元康の軍に属して朝鮮へ渡った。同年6月15日、開寧に在陣中の毛利輝元は上野善右衛門を使者として毛利元康の元へ派遣して慶尚道東北部の要衝である安東の鎮撫に当たることを命じた。元康は元秀ら麾下の諸将を率いて、6月22日に安東へ入城した。
 慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では毛利秀元に従って再び渡海。朝鮮半島各地を転戦した後に蔚山における突貫工事での蔚山倭城築城に加わったが、完成目前の同年12月22日、明軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000に急襲され、同じく毛利氏家臣である冷泉元満や都野家頼らと共に戦死した(蔚山城の戦い)。なお、直前の11月29日には父・広秀も死去している。

 

 安芸国安芸郡世能荒山荘を本拠地とした国人であった阿曽沼元秀の嫡男として生まれる。毛利氏家臣で鳥籠山城主。
 慶長2年(1597年)から始まる慶長の役では、父・元秀が毛利秀元に従って朝鮮に渡り、各地を転戦した後に蔚山における突貫工事での蔚山倭城築城に加わったが、完成目前の同年12月22日、明軍の先鋒である擺寨が指揮する軽騎兵1000に急襲され、同じく毛利氏家臣である冷泉元満や都野家頼らと共に戦死した(蔚山城の戦い)。元秀戦死の直前の11月29日には祖父・広秀も死去しており、元秀の戦死に伴って元郷が家督を継いだが、慶長6年(1601年)8月3日に死去。
 当時、元郷には嗣子がいなかったが正室が妊娠していたため、同年8月26日に輝元は佐世元嘉に書状を送り、男子が生まれた場合はその男子に阿曽沼氏を相続させ、女子が生まれた場合は毛利秀元や天野元政と相談した上で決定するとした。翌年に生まれた子は女子であったため、慶長7年(1602年)6月14日に天野元政の子・兵七(後の阿曽沼元理)に加冠状と「元」の偏諱を与えた上で、元郷の娘と婚姻させて阿曽沼氏を相続させた。また、正室は慶長12年(1607年)に毛利元鎮に再嫁している。

阿曽沼元理

 毛利元就の7男である天野元政の子で、阿曽沼元郷の娘婿となり阿曽沼氏を相続した。禄高は2500石。
 慶長6年(1601年)8月3日に毛利氏家臣の阿曽沼元郷が死去。当時、元郷には嗣子がいなかったが正室が妊娠していたため、同年8月26日に輝元は佐世元嘉に書状を送り、男子が生まれた場合はその男子に阿曽沼氏を相続させ、女子が生まれた場合は毛利秀元や天野元政と相談した上で決定するとしたが、翌年に生まれた子は女子であった。そこで輝元は毛利秀元と天野元政と相談し、元政の子である兵七(後の元理)が阿曽沼元郷の娘と婚姻し、婿養子として阿曽沼氏を相続することと決まった。
 慶長7年(1602年)6月14日、輝元から加冠状を受けて元服し、「元」の偏諱を与えられて「元理」と名乗った上で、将来的に元郷の娘と婚姻することとして阿曽沼氏を相続した。なお、約定に違反した際には元郷の知行は元郷の娘の方へ与えるとも決められている。
 慶長14年(1609年)4月29日に実父・元政が死去し、同年12月28日に輝元から「左兵衛尉」の官途名を与えられ、翌慶長15年(1610年)10月10日には、毛利秀元から疎意無き旨を誓う血判起請文を与えられた。慶長17年(1612年)11月19日には毛利秀就から「帯刀左衛門尉」の官途名を与えられる。
 寛永9年(1632年)9月5日、毛利秀就から「石見守」の受領名を与えられ、寛永14年(1637年)3月3日、元理の2500石の知行を子の就致が相続することを秀就に認められた。承応2年(1653年)11月14日に死去。