佐野基綱が下野国安蘇郡佐野庄に住んで、佐野太郎を称したのに始まるという。寿永3年(1183年)、志田義広の乱で、本宗家である伯父・足利俊綱とその子・忠綱が、平家方の傘下として常陸国の志田先生義広(頼朝の叔父)と盟約したのに対し、庶家の基綱は父・有綱とともに早くから源氏に味方した。寿永2年(1183年)2月23日、親族の小山朝政と結び、志田義広の軍勢と野木宮で戦い、これを撃破し本宗家の足利父子を敗走させた(野木宮合戦)。基綱の名は『吾妻鏡』にも佐野太郎基綱とみえている。同年9月7日に、頼朝の厳命を受けた足利義兼,和田義茂らが渡良瀬川に陣営を取った。足利父子の譜代郎党の桐生六郎の裏切りによって、本宗家がついに滅亡した。以降の基綱は、鎌倉幕府の御家人として勢力を維持した。文治3年(1187年)に、義経の武将・多田行綱から、格別な弓矢を給わったという。文治5年(1189年)7〜9月、奥州合戦に参陣する。 承久3年(1221年)の承久の乱で功をあげ、その功により淡路国で地頭職に任じられた。しかし、宝治元年(1247年)の宝治合戦で三浦氏に味方したため没落。わずかに本拠地佐野荘の地頭として存続するに至ったようである。その結果として、鎌倉時代における佐野氏の動向は不詳な部分が多い。
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