幼少期から徳川家康の小姓としてその側近くに仕え、家康が人質になったときにも行動を共にした。永禄6年(1563年)の三河一向一揆では一向門徒であった天野一族にも一揆方に付く者がある中、康景は家康方で功を挙げている。そして本多重次,高力清長と共に家康の三河時代における岡崎三奉行と称され、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」(清長は寛大、重次は剛毅、康景は慎重)と評価された。
天正14年(1586年)には甲賀忍者の統率を任され、2,200貫の所領を与えられた。家康が関東に移ると、下総国内で3,000石を与えられ、同時に江戸町奉行に任じられた。慶長6年(1601年)には1万石を与えられて興国寺藩主となり、康景はその藩政において農政や治水工事に尽力した。しかし、慶長11年(1607年)には康景が貯えた竹木を窃取する者があり、これを阻止せんとする家臣がその盗人と思しき天領の領民たちを殺傷した問題を巡って家康の内々の仰せを受けた本多正純が康景のもとに訪ねて説得。しかしその正純が下手人の提出を求めた発言に激怒した康景は翌12年3月9日(1607年4月5日)、遂に城地を放棄して子の康宗とともに出奔したために改易に処せられた。その後は小田原の西念寺に入り、慶長18年(1613年)2月24日に同地で死去した。享年77。