<藤原氏>南家

F008:入江維清  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原乙麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 ー 岡部泰綱 F010:岡部泰綱

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岡部久綱 岡部正綱

 天文10年(1541年)6月、今川義元の命により太原雪斎,久綱の両名が甲府へ派遣され武田信虎隠居の件について交渉を行ったとされる。

 

 少年時代の正綱は人質として駿府に連れてこられた徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていたとされる。
 最初は今川家に仕えており、16歳の初陣で兜首2つを獲って名を馳せた。その後、武田信玄の侵攻(駿河侵攻)で駿河を失うなどして、今川家が勢力を失った後も、今川館に籠もって頑強に抵抗した。今川氏の滅亡後は、その武勇を高く評価され、礼を尽くして信玄に招かれ、武田氏の家臣として仕えた。
 その後は武田家臣として、三方ヶ原の戦いなど数多の戦で活躍したが、天正9年(1581年)に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し、弟の岡部元信が討ち死にした後は徳川家康の家臣となる。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去して家康が甲斐に侵攻すると、旧武田家臣の調略などを行って、家康の甲斐平定に尽力した。
 しかし翌年、戦傷が原因で死去したとも、武田旧臣達を調略する際に毎度酒宴を催していたため、急性アルコール中毒で身体を壊して死去したとも言われ、没年・死因ともに異説がある。

岡部元信 土屋貞綱

 今川氏が衰退してからは武田氏に仕えた。祖父の岡部親綱は今川氏の重臣であり、今川義元の家督相続に重要な役割を果たした。元信自身も遠江および三河の平定に大きく貢献した武将の1人。尾張の鳴海城在番となる。

 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは鳴海城を拠点に織田勢と戦いを繰り広げた。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続けるが、主君の首と引き換えに開城。駿府へ帰還する途次、戦功の無いまま帰るを良しとせず刈谷城を攻撃、水野信近を討ち取り城を焼き払った。

 今川家譜代の家臣だが、義元死後の永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻によって氏真が駿府を追われると降伏して武田氏に仕え、高天神城の守将に任じられる。

 天正9年(1581年)、徳川軍は横須賀城を拠点に本多忠勝らに高天神城を攻撃させ開城させた(第二次高天神城の戦い)。この際に元信は敵軍に斬り込み、大久保忠教の家臣に討たれた。

 当初は伊丹康直とともに駿河水軍を率いて今川氏に仕えた。武田氏の駿河侵攻により今川氏が滅亡すると武田氏に降る。この時、武田信玄は北条方の伊豆水軍から間宮武兵衛,造酒丞兄弟を引き抜き、貞綱を武田の水軍大将に据えた。永禄13年(1570年)頃に土屋姓に改姓し、土屋豊前守と称した。水軍編成に当たって貞綱は伊勢から向井正綱と小浜景隆を招聘した。
 武田家臣・金丸虎義の次男の昌続は土屋氏の名跡を継承し永禄11年頃の改姓が確認され、『甲陽軍鑑』に拠れば昌続実弟の昌恒は貞綱の養子になったという。貞綱と昌続は天正3年(1575年)に長篠の戦いで共に討死したため、昌恒が昌続,貞綱双方の家臣団を継承している。