<藤原氏>南家

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岡部長盛 岡部宣勝

 長盛以前に「康綱(あるいは忠綱)」と称される人物が岡部氏の当主だったとも言われており、これが長盛なのかそれとも長盛の兄にあたる人物なのかについては意見が分かれている。
 天正11年(1583年)、父の死により家督を継いだ。翌年の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の鳥居元忠を大将とする信濃上田城攻めでの真田昌幸との対戦などに参戦した。天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移封されたとき、それまでの戦功を賞されて下総山崎藩1万2000石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、下野黒羽城の守備につき、上杉氏の南下に備えた。
 慶長14年(1609年)、丹波亀山藩3万2000石に加増移封された(のち、2000石加増を受け、合計4万石)。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で功績を挙げ、同国福知山藩5万石に加増移封された。寛永元年(1624年)、美濃大垣藩5万石へ移封される。
 寛永9年(1632年)11月2日、65歳で死去。武勇に優れ、「岡部の黒鬼」と称された。墓地は岐阜県揖斐郡揖斐川町の瑞厳寺。

 

 若い頃から智勇に優れ、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では父と共に出陣して天満口の戦いで武功を挙げた。翌年の大坂夏の陣においても出陣して武功を挙げる。寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に随行する。寛永9年(1632年)、父の死去により後を継いで大垣藩主となる。しかし3ヶ月後の翌年3月19日、播磨龍野藩へ移封された。寛永12年(1635年)3月には高槻城加番となり、翌年6月23日に高槻藩主として転身する。
 寛永17年(1640年)9月11日、8800石加増の上で和泉岸和田藩主となる。しかし前領主の松平康重,松平康映らが重税を布いて悪政を行なっていたことから、松平氏が移封されて新たに領主となった宣勝に対して領民が強訴や一揆を起こそうと企てた。これに対して宣勝は武力は使わず、領民の代表者の意見や窮状をよく聞き、減税などを受け入れることで未然に一揆が起こることを防ぎ、善政に尽くした。これにより、松平氏の悪政からかなり改善されたと言われている。
 宣勝は岸和田城の石垣普請,城郭の整備などによる城の増築や社寺の建立、民政に尽力して藩制を確立した。寛文元年(1661年)10月27日、子の岡部行隆に家督を譲って隠居し、以後は悠々自適の生活を過ごしながら寛文8年(1668年)10月19日に72歳で死去した。墓所は大阪府岸和田市の泉光寺。
 藩制の確立や善政を布いたことから、名君と称された。また、徳川家光からの信任は特に厚く、宣勝が岸和田に配されたのは紀伊和歌山藩の紀州徳川家を抑えるためであったと言われている。

岡部長泰 岡部長慎

 江戸に生まれる。初名は宣就。貞享3年(1686年)8月25日、父の隠居により後を継いだ。藩財政は豊かで、祖父や父の藩政のもとで岸和田藩は全盛期を迎えていたが、長泰は奢侈を戒めて倹約を主とした法令を定めている。また、文武を奨励し、特に儒学を好んで林大学に儒学を学び、自らも講師として藩士などに儒学を講じている。また、和歌をたしなみ、武芸を好むという智勇に優れた人物だった。民政においても善政を布いたことから、「誉ある将」と賞賛されている。

 元禄16年(1703年)京都の伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願する稲荷祭を行った。これが「岸和田だんじり祭」の起源となった。

 宝永元年(1704年)に、姫路藩主・本多忠国の死去に伴い、大和川付け替え工事の引継ぎを幕府より命ぜられ、完遂するなど、水利・治水に精通するなど民政に手腕を認められていた。

 享保6年(1721年)9月22日、家督を次男の長敬に譲って隠居し、享保9年(1724年)7月18日に岸和田で死去した。享年75。墓所は大阪府岸和田市の泉光寺。

 天明7年(1787年)2月29日生まれ。幼名は第次郎。千弥。次男だったが、兄の岡部長周と父が享和3年(1803年)に相次いで死去したため、その後を継いで藩主となった。この頃、岸和田藩は「負債山を成す」とまで言われるほど藩財政が悪化していたが、長慎は自ら倹約に努め、家臣の禄高を抑えるなどしている。さらに文武を奨励し、家臣に不正があれば厳しく罰した。しかしやさしい一面もあり、家臣が病気になったときにはよく労わったと言われている。
 天保4年(1833年)11月24日、長男の長和に家督を譲って隠居し、南山と号した。以後は藩史をまとめ上げた「岡部氏家訓」、「重訂本草綱目啓蒙」、「本草綱目図譜」など著作活動を多く行ない、水間寺の三重塔や本堂の再興に務めた。安政5年(1858年)12月25日、72歳で死去。

岡部長寛 岡部長職

 文化6年(1809年)3月13日、岸和田城にて生まれる。幼名は第二郎。第10代藩主・岡部長和の弟で、第11代藩主・岡部長発の兄に当たる。長兄・長和がいたため、本家の家督を継ぐことはできず、天保2年(1831年)12月27日に分家の旗本・岡部長貞の養嗣子となる。しかし安政2年(1855年)に本家の家督を継いでいた弟の長発が若死し、長発の子である岡部長職も幼少だったため、本家の家督を継ぐこととなった。
 幕末の動乱の中で、藩政においては軍政改革や藩校,講習館の増築を行なって修武館と改名するなどしている。佐幕派として行動していたが、戊辰戦争が起こると新政府側に与した。明治元年(1868年)12月28日、長職に家督を譲って隠居した。
 明治20年(1887年)2月3日、79歳で死去した。墓所は千葉県野田市の海福寺。

 1854年(嘉永7年)11月15日、江戸藩邸にて生まれる。父は長職が生まれた翌年2月に早世した。このとき、わずか2歳の幼少であり、家督は伯父の岡部長寛が継いだ。長職は長寛の養嗣子となり、成長した後に家督を譲られることとなった。そして1868年(明治元年)12月28日、長寛の隠居により家督を継いで藩主となる。1869年(明治2年)、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行なった。1871年(明治4年)の廃藩置県で免官となり、東京へ移る。
 1884年(明治17年)子爵となる。1886年(明治19年)3月、公使館参議官となる。翌年12月からはイギリス公使館に勤務し、臨時代理公使を務めた。1889年(明治22年)12月には外務次官となり、1890年(明治23年)7月には貴族院議員となった。しかし1891年(明治24年)、大津事件が起こると、その事件の責任を取る形で外務次官を辞任した。
 1897年(明治30年)10月、東京府知事となる。この頃には貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣の司法大臣に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に務めている。1916年(大正5年)4月には、枢密顧問官となった。1925年(大正14年)12月27日、かねてより患っていた脳梗塞が再発し、72歳で死去。墓所は東京都港区の青山墓地。

岡部長景

 東京帝国大学卒。外務省に入省して文化事業部長、宮内省に転じ内大臣秘書官長、1930年貴族院議員、宮内省式部次長、陸軍政務次官、大政翼賛会総務、1943年東條英機内閣で文部大臣、学徒動員、学徒勤労動員を実施した。

 占領期にはGHQにより、戦犯容疑で逮捕拘束されたが不起訴となり釈放。講和後は東京国立近代美術館館長、国際文化振興会(現在の国際交流基金)理事長に就いた。