<藤原氏>南家

F010:岡部泰綱  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原乙麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 ― 岡部泰綱 ー 土屋昌恒 F012:土屋昌恒

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土屋昌恒 土屋忠直

 武田信玄仕え、信玄から次代の武田氏を支える逸材として期待され、信玄死後、勝頼にも重く用いられたといわれる。天正3年(1575年)、長篠の戦いにも参加して奮戦したが、このときに父と兄が戦死したため家督を継承し、また兄・昌次の後を受けて竜朱印奏者になった。勝頼に従い主に東海道方面,関東方面の戦いの多くに参加した。
 天正10年(1582年)、織田信長の武田攻めで武田氏の一門や家臣団の多くが離反していく中で、昌恒は最後まで武田勝頼に付き従い、勝頼が滝川一益隊に天目山で追いつめられて自害を覚悟したとき、勝頼が自害する間の時間を稼いで織田勢と戦って奮戦したが、兵の多寡は知れており、最後は討ち死にした。この戦いの際、峡い崖道で織田勢を迎え撃つため片手を蔦に絡ませ崖下へ転落しない様にし、片手で戦い続けたことから、後に「片手千人斬り」の異名をとった。
 後世の記録には「容姿端麗にして剛毅」と称されている。

 忠直が生まれた1582年に父は天目山の戦いで武田勝頼に殉じた。忠直は母に連れられて駿河国清見寺に逃亡していた。やがて徳川家康の召し出しを受けて家臣となり、徳川秀忠の小姓として仕えるようになる。のちに秀忠の「忠」の字を与えられて、忠直と名乗る。
 天正19年(1591年)、相模において3000石を与えられた。慶長7年(1602年)には上総国久留里藩主となり、2万石を与えられた。

土屋利直 土屋直樹

 慶長17年(1612年)に父が死去したため、家督を継いで藩主となり、徳川家康に仕えた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも参戦したが、幼少のため、家臣を代理として参戦させ、相模小田原城と箱根関所の警備を務めた。
 元和7年(1621年)からは徳川秀忠の近習となり、従五位下・民部少輔に叙位,任官する。寛永13年(1636年)、寛永19年(1642年)、慶安2年(1649年)には大坂加番に任じられている。延宝3年(1675年)閏4月24日に死去。享年69。なお、のちに正徳の治という幕政改革を行なった新井白石、ならびにその父である新井正済らは、利直のもとで大目付として仕えていたことがある。

 延宝3年(1675年)に父が死去したため、家督を継いで藩主となる。このとき、弟の喬直に1000石と新墾田1000石の合わせて2000石を分与したため、久留里藩は2万石となった。同年12月、従五位下・伊予守に叙位,任官する。
 延宝7年(1679年)8月7日、狂気を理由に改易され、久留里城も破却された。しかし甲斐武田家以来の名門であることを考慮されて、長男の逵直が遠江国内で3000石を与えられ、土屋家は旗本として存続した。
 以後、直樹は逵直のもとで余生を送り、延宝9年(1681年)6月30日に死去した。享年48。
 新井白石の父である正済は、直樹の相続後より仕えるに足らずとして一度も出仕しなかったため、延宝5年(1677年)に土屋家を追われている。ただし正済は土屋家の内紛に関与したために1678年に追放刑となった、とする説もある。新井家は直樹により奉公構にされたため、白石は困窮の中で育った。

土屋興直

 寛保3年(1743年)、8代将軍徳川吉宗に拝謁する。翌延享元年(1744年)11月20日、父から家督を譲られ、宝暦元年(1751年)に1月より本所の火事場見廻り(本所深川火事場見廻役)を務め、宝暦8年(1758年)1月に使番、12月に布衣着用を許される。明和4年(1767年)4月25日、病気と称してしばしば出仕を怠り、当直を同僚に代わらせるといった勤務怠慢により使番の務を剥奪されて出仕停止となり、8月27日に許された。安永9年(1780年)12月19日に隠居、子の雄直に家督を譲って宗閑と号した。寛政6年(1794年)5月6日に死去。享年70。