<藤原氏>南家

F012:土屋昌恒  藤原鎌足 ー 藤原武智麻呂 ー 藤原為憲 ー 入江維清 ― 岡部泰綱 ー 土屋昌恒 ー 土屋数直 F013:土屋数直

リンク
土屋数直 土屋政直

 家督は兄の利直が継承、数直は元和2年(1616年)に2代将軍・徳川秀忠に拝謁し、元和5年(1619年)から秀忠の命令で徳川家光に仕えた。元和8年(1622年)に家光の近習に任じられる。
 寛永元年(1624年)に500俵取りに任じられ、12月28日に従五位下・大和守に叙任される。寛永5年(1628年)に上総に200石を与えられる。寛永9年(1632年)に進物番に任じられ、寛永10年(1633年)2月7日に常陸で200石を与えられる。寛永18年(1641年)7月5日に書院番組頭に任じられ、後に駿府城番となる。
 慶安元年(1648年)10月27日に小姓組番頭に任じられる。慶安4年(1651年)11月21日に1000俵を加増される。承応2年(1653年)9月18日に久世広之,牧野親成と共に4代将軍・徳川家綱の側衆に任じられる。寛文2年(1662年)2月に合計1万石を与えられて若年寄に任じられる。寛文5年(1665年)12月23日に老中に任じられ、他の老中と共に文治政治に取り組むことになる。
 寛文9年(1669年)には合計4万5000石の大名となる。寛文10年(1670年)12月29日に侍従に任官される。翌寛文11年(1671年)に伊達騒動の当事者達を召喚、審問を行った。
 数直は山鹿素行を藩邸に招き、林鵞峰と親交を結ぶなどの文化人でもあった。ただし、老中として江戸に在府することが多かったため、藩政は長男の政直に任せている。延宝7年(1679年)4月2日に死去。享年72。

 父の死後に家督を相続する。その後、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰する。漸次加増をうけ、最終的に9万5000石となる。奏者番,大坂城代,京都所司代を経て老中に就任、元禄11年(1698年)に老中首座となり4人の将軍に仕えたが、側用人政治を展開していた新井白石と間部詮房には内心反対し、7代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中らに口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは3問中2問を答えることができた政直のみだったという。
 享保4年(1719年)に老中を辞任、隠居して4男の陳直に家督を譲り、3年後に82歳の高齢で亡くなった。隠居後も特に前官礼遇を受けていた。
 茶道を嗜み、遠州流の門人の一人でもある。また、赤穂事件の関係者であった従甥の土屋逵直の次男・好直を養子に迎えている。

 

土屋寛直 土屋寅直

 享和3年(1803年)に父が死去したため、家督を継いで第8代藩主となる。しかし病弱で、文化7年(1810年)10月15日に死去した。享年16。
継嗣が無いため、寛直はなおも病床で生きているということにして、幕府に進退伺を提出、「病弱で、嗣子もなく領地奉還をしたい」と願い、更に「養子を認められるなら」という文章を提出したところ、祖先の勲功があったので養子を認められ、水戸藩の徳川治保の3男(土屋彦直)に寛直の養女(実妹)充子を嫁がせることで婿養子として迎えた。そして養子縁組が成立した後の文化8年(1811年)10月2日に死去したと発表している。

 天保9年(1838年)12月7日、父が眼病を理由に隠居したため、家督を継いだ。
 天保14年(1843年)に奏者番に任じられる。嘉永元年(1848年)7月23日に寺社奉行見習、10月18日に寺社奉行に任じられる。嘉永3年(1850年)9月1日に大坂城代に任じられた。安政5年(1858年)11月26日、大坂城代を退任する。元治元年(1864年)9月10日、奏者番兼寺社奉行に再び就任する。慶応4年(1868年)3月1日、奏者番兼寺社奉行を退任し、新政府の命令で謹慎する。後に新政府に恭順して江戸城警備を務めた。5月6日、養子の挙直に家督を譲って隠居した。明治28年(1895年)に死去、享年76。
 水戸藩の徳川斉昭の従弟に当たることから、安政5年(1858年)の大坂・兵庫開港に反対している。また、水戸藩で天狗党の乱が起こったときにも、その鎮圧には消極的な立場に終始するなど、佐幕派と討幕派の間で苦慮した行動が目立った。藩政では藩財政再建のために倹約令を出し、家臣の知行借上や特産物の専売化を行なっている。また、人材登用や郡制改革,学問の奨励など、斉昭に倣った藩政改革を行なっている。

土屋挙直

 嘉永5年(1852年)9月19日、水戸藩主・徳川斉昭の17男として江戸小石川の水戸屋敷で生まれる。斉昭の従兄弟である土浦藩の第10代藩主・土屋寅直の養子となり、慶応4年(1868年)5月6日の寅直の隠居により、家督を継いで第11代藩主となる。5月15日に従五位下・相模守に叙位・任官する。
 明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により土浦藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で知藩事を免官された。その後、東京へ移り、内務省御用掛と勧農局事務取扱役を兼任し、下総牧羊場で勤務した。全ての職を辞任した後は没落していく士族のために農地開発,開拓を積極的に推し進めたといわれる。明治25年(1892年)10月24日に死去。享年41。