清和源氏

G612:木田重長  源 経基 ― 源 満政 ― 木田重長 ― 山本貞久 G613:山本貞久

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山本貞久 山本晴幸(菅助)
 山本氏の遠祖は、鎮守府将軍源満政であると伝えられる。満政の玄孫・重長が美濃国木田郷に住し、木田氏を称した。その子・重国は、承久の乱で後鳥羽上皇に味方して、討ち死にした。その甥、重季も伯父と共に討ち死にした。木田重季の子孫は、駿河国富士郡山本村に渡来して、在地の土豪となった。この木田氏は、後に貞久(弾正)が山本と姓を改めて、駿河,遠江の戦国大名の今川氏に仕えた。

 武田二十四将の一人で武田の五名臣の一人でもある。生誕地は『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪の出とある。江戸時代後期成立の『甲斐国志』によれば、勘助は駿河国富士郡山本の吉野貞幸と安の三男に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入っている。
 勘助は10年の間、中国,四国,九州,関東の諸国を遍歴して京流(または行流)兵法を会得して、城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めた。
 天文5年(1536年)、37歳になった勘助は駿河国主今川義元に仕官せんと欲して駿河国に入り、牢人家老庵原忠胤の屋敷に寄宿し、重臣朝比奈信置を通して仕官を願った。だが、今川義元は勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。勘助は仕官が叶わず牢人の身のまま9年にわたり駿河に留まり鬱々とした日々を過ごした。
 勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がいると若き甲斐国主武田晴信に勘助を推挙した。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面する。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫とした。勘助は深く感服した。晴信は城取りや諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになったという。
 同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明した。また、勘助は晴信が滅ぼした諏訪頼重の姫を側室に迎えることを強く主張している。
 天文15年(1546年)、村上義清の戸石城攻めでの晴信軍総崩れから体勢立て直しを献策し、村上勢を打ち破ったという。武田家家中は「破軍建返し」と呼ばれる勘助の縦横無尽の活躍に「摩利支天」のようだと畏怖し、この功績により、武田家の家臣の誰もが勘助の軍略を認めるようになった。
 晴信は軍略政略について下問し、勘助はこれに答えて様々な治世の献策をした。優れた城取りで高遠城,小諸城を築き、勘助の築城術は「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。また、勘助の献策により有名な分国法「甲州法度之次第」が制定された。
 天文22年(1553年)信玄の命により、謙信に備えるべく勘助は北信濃に海津城を築いた。城主となった春日虎綱(高坂昌信)は、勘助が縄張りしたこの城を「武略の粋が極められている」と語っている。
 永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案するようを命じる。勘助と信春は後にいう「啄木鳥戦法」を献策するが、謙信はこの策を見抜き、八幡原での激戦となる。武田勢は押しまくられ、武田家の武将が相次いで討ち死にした。その中に勘助がいた。『武田三代軍略』によれば、勘助は己の献策の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に死を決意して、敵中に突入。奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られたという。享年69。

山本幸俊 山本信供

 『甲斐国志』によれば、饗庭越前守利長の次男として誕生。天文20年(1551年)に初代・山本菅助の娘を正室として娶り山本家に入る。幼い信供を後見して名代を務める。天正3年(1575年)5月21日、二代菅助(信供)は長篠の戦いで討死し、十左衛門尉(幸俊)が山本家を継ぐ。翌天正4年(1576年)5月12日には武田領国の家臣に対して軍役規定が出されており、真下家所蔵文書の同年推定武田家朱印状に拠れば十左衛門尉に対して鉄炮・鎚など5名分の軍役が定められている。

 

 天正10年(1582年)3月11日には織田・徳川連合軍の甲斐侵攻により武田氏は滅亡し、同年6月の「天正壬午の乱」を経て徳川家康が甲斐を領有する。十左衛門尉は同年6月22日に徳川家臣大須賀康高から所領を安堵されており、同年8月に武田遺臣が家康への臣従を誓約した天正壬午起請文においても「信玄直参衆」に名を連ねており、旗本に属していたことが確認される。さらに同年閏正月14日には徳川家康から所領35貫を安堵されている。慶長2年(1597年)死去。  

 父の初代菅助は永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで戦死したといわれ、幼い兵蔵は十左衛門尉に後見され育つ。
 永禄11年(1568年)に元服し菅助を名乗る。同年6月7日には小者合計6人の軍役を課せられている。
 天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討死する。

山本平一 山本正武

 天正10年(1582年)3月、主家武田家の滅亡後は十左衛門尉と共に甲斐を領有した三河国の徳川家康に仕える。十左衛門尉は徳川直参衆(旗本)となり、『山本家過去帳』によれば慶長2年(1597年)に死去する。平一は山本家の家督を継承し、「山本家由緒書控」によれば山城国伏見城の在番を務めている。
 平一の動向を示す唯一の文書として慶長9年(1604年)6月26日「結城秀康書状」がある。これは平一は家康の次男・結城秀康を見舞った際の礼状で、年代は秀康の病の時期や秀康の伏見滞在、平一の伏見在番の時期から慶長9年であると考えられている。内容は秀康が平一の訪問を感謝し、自らの病気により平一を早く帰らせたことを詫び、さらに羽織を与えている。     
 慶長10年(1605年)5月13日に伏見において死去する。平一には子が無く、弟の素一郎,弥八郎も相次いで死去したため山本家は浪人となるが、寛永10年(1633年)末弟の三郎右衛門が淀藩主・永井尚政に仕官し、さらに天和2年(1682年)に三郎右衛門の子孫・四代菅助が常陸国土浦藩主・松平信興に仕官し明治維新に至る。

 『断家譜』によると、大番等を勤めた250石の家柄であったが、宝暦11年(1761年)に当主が逐電したため断絶している。この当主(山本辰之助)は山本勘助から数えて8代目となる。