清和源氏

G120:山県国氏  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 仲政 ― 源 頼政 ― 山県国氏 ― 山県家信 G121:山県家信

リンク
山県重秋 山県昌景

 安芸山県氏は安芸の国人領主で同国山県郡壬生を本拠とした。大内義興が足利義尹を擁して永正5年(1508年)に上洛した際には、安芸武田氏当主・武田元繁に従って上洛した。永正8年(1511年)の船岡山合戦では大内氏方として奮戦した。
 京都から帰還すると、大内氏と武田元繁が対立を深めており、重秋は元繁に味方して大内氏に抵抗した。永正11年(1514年)の毛利興元書状で、重秋の子・重房に下麻原の一部を所領として宛がった記録が残っており、この頃には家督を息子に譲っていたと思われる。
 永正14年(1517年)、安芸武田氏が有田城を包囲した有田中井手の戦いにおいて、重秋は子・重房と共に武田元繁に従って出陣したが、毛利氏当主・毛利幸松丸の後見人・毛利元就、吉川氏家臣・宮庄経友率いる毛利・吉川連合軍によって敗北を喫した。
 通説では、山県昌景は甲斐国の飯富氏当主・飯富虎昌の弟とされていたが、兄弟にしては年齢があまりにも違うこと、萩藩の一級資料「閥閲録」では、昌景が山県重秋の子で、重秋の後妻との不仲が原因で安芸山県氏を出奔して甲斐に赴いたとされていることから、重秋の子という可能性もある。  

 戦国時代の飯富氏の一族では武田信虎家臣・飯富道悦の子息とみられる「源四郎」が永正12年(1515年)10月17日に西郡の国人・大井信達との合戦で死去している。この「源四郎」は山県昌景の仮名と一致するため、「源四郎」は虎昌・昌景の父親にあたると考えられている。
 『甲陽軍鑑』に拠れば、昌景ははじめ武田信玄の近習として仕え、続いて使番となる。『甲陽軍鑑』では晴信期の信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立てたとし、天文21年(1552年)、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢される。その後も虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたとしている。
 確実な初見史料は弘治2年(1556年)8月2日で、昌景は飯富源四郎として水科修理亮に対し与えられた信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めている。永禄6年(1563年)、三郎兵衛尉を名乗る。その後も順調に戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となったという。
 永禄8年(1565年)10月には信玄の嫡男・武田義信と彼の傅役だった虎昌が謀反を起こし、同15日に虎昌は成敗されたという(義信事件)。『甲陽軍鑑』によれば、昌景は血族である虎昌が関与していることを承知の上でこれを信玄に訴えたという逸話を記している。この功績により虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、飯富の姓から信玄の父・信虎の代に断絶していた山県(山縣)氏の名跡を与えられて山県昌景と名を改めたといわれ、永禄9年(1566年)8月時点での改姓が確認される。
 元亀2年(1571年)に武田氏は大規模な遠江・三河侵攻を行い、昌景は山家三方衆ら奥三河の国衆を服属させ、抵抗した菅沼定盈に対しては同年4月28日に居城・大野田城を押し潰し、定盈を退散させ、さらに吉田城を攻囲したとされるが、近年はこの元亀2年の侵攻は根拠となる文書群の年代比定が天正3年に下り、一連の経緯は長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている。
 『当代記』によれば、元亀3年(1572年)10月、信玄が「西上作戦」を開始すると、秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河に侵攻したという。武田氏に従属した菅沼氏や奥平氏など奥三河国衆は山県の指揮下に組み込まれていたため、これらに先導させて三河東部の長篠城経由で浜松方面へ進軍する。三河八名郡の柿本城、更に越国して遠江の井平城も落とし南進し、浜松城を圧迫する下地作りを完了させた上で信玄本隊に合流した。同年12月22日には武田勢と三河の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが発生し、『甲陽軍鑑』では山県勢が崩れかかったところを武田勝頼が助けたとする逸話を記している。
 元亀4年(1573年)4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場において死去する。
 勝頼の家督相続後、天正元年(1573年)8月21日には三河長篠城への後詰の指揮を命じられている。明知年譜によると、天正2年(1574年)、武田勝頼の東美濃侵攻における明智城をめぐる戰いでは、救援に来た織田信長本体3万人に対し、山岳地帯の地形を利用し、6000人の兵で撃退した。信長軍を4里退かせ、信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られ、7騎が逃げ出すなど、信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。
 『甲陽軍鑑』『当代記』によれば、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは山県や内藤昌秀,馬場信春,原昌胤,小山田信茂らが撤退を進言したが、勝頼と側近の長坂光堅(釣閑斎),跡部勝資が決戦を主張し、勝頼は決戦を決断したという。そして5月21日の設楽原決戦では、内藤,原らと武田軍左翼の中核を担った。山県は300騎を率い、駿河の朝比奈氏、信濃の松尾小笠原氏、相木依田氏、大熊氏、三河の田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、遠江の三浦氏、孕石氏らの国衆を相備にしていたという。
 『信長公記』『松平記』『大須賀記』によれば、武田勢の攻勢は九ツ始め(午前11時)に始まり、左翼の山県勢が徳川軍を襲撃したという。『信長公記』によれば山県勢は「一番」に攻撃を仕掛けたが敗退し、『信長公記』『松平記』によれば武田勢は未刻(午後2時頃)には退却し、山県,真田信綱ら武田勢の武将は追撃戦の最中に戦死したという。享年47。高野山成慶院『甲斐国供養帳』には山県の戦死時刻を「未ノ刻」と記している。長篠合戦屏風には、戦死した昌景の首級を家臣の志村光家が敵に奪われない様持ち去る描写がある。 

上村昌久 山県昌重
 長篠の戦いの後、母方の実家の尾張に移り上村源四郎と称する。源四郎の子の笹治大膳こと上村昌時(笹治正時)は結城秀康に仕え、家老として3600石を領する。笹治大膳家の祖。子孫は福井藩の家老職家として最大時で1万石を与えられ笹治姓を称し、十代後に山県に復姓。 

 不遇により塙団右衛門に家老として仕え、大坂の陣が始まると「関東方は多勢にて、功を挙げたとしても禄は期待できない。だが、大坂方ならば大功を挙げれば大名にもなれる」と団右衛門に従って大坂に入城した。
 慶長19年12月17日、本町橋の夜討ちに参加。抜け駆けした二宮長範に続いて二番目に橋を渡り、一番首を挙げた。夜討二十三士に列せられ、同日朝、大野治長,木村重成より呼び出され、千畳御屋敷にて豊臣秀頼から引出物として竹流の黄金を拝領した。翌年3月には妙心寺の僧から山縣宛に書状が送られ、この時、大坂城内にいた小幡景憲が内通者であることを知ったという。
 慶長20年4月29日、団右衛門が属する大野治房の軍勢数万騎が徳川方・浅野長晟を討つため大坂より出陣。昌重はこの時、30人を預かり樫井にて長晟の先手と交戦した(樫井の戦い)。 団右衛門と岡部則綱が先手を競い合い突出した結果、治房本隊との連携が取れない状況のなかでの戦闘となったが、組下の者を従え奮戦し、上田重安とその家来である横関新三郎,横井平左衛門なる者と槍を合わせ、一時は重安を追い込むも主君を救わんと駆けつけた平左衛門に斬られ、新三郎に首を取られた。
 なお、昌重の首は4月30日、関市兵衛,寺川庄左衛門により二条城へ送致された。紀伊国加太浦から塙団右衛門,蘆田作内,横井治左衛門,山内権三郎,須藤忠右衛門,熊谷忠太夫,徳永浅右衛門,坂田庄三郎,山縣三郎右衛門など、兜首を含む12級が戦況報告と共に船で送られたという。  

山県信継 山県昌貞
 三郎兵衛。のちに徳川家康に仕え川浦村に500石を賜り、川浦口留守番を命ぜられる。子孫は、「山県館」(川浦温泉の一軒宿)を経営し、武田家旧温会会長を務める。 

 甲斐国巨摩郡北山筋篠原村に生まれたと言われる。父が与力の村瀬家を継ぎ、甲府百石町に移住する。
 山崎闇斎の流れを組む加々美光章,太宰春台の弟子である藤田の五味釜川に学び、1742年(寛保2年)には京都へ遊学する。医術のほかに儒学も修め、甲斐山梨郡下小河原山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説いた。
 1750年(延宝2年)に村瀬家を継ぐが、弟の起こした殺人事件に際して改易され浪人となる。山県家に戻り名を山県昌貞と改め、1756年(宝暦6年)頃江戸へ出て医者となる。江戸幕府若年寄の大岡忠光に仕え、代官として勝浦に赴任する。
 忠光の死後は大岡家を辞し、江戸八丁堀長沢町に私塾「柳荘」を開き、古文辞学の立場から儒学や兵学を講じた。上野国小幡藩家老・吉田玄蕃など多くの小幡藩士を弟子としていたことから小幡藩の内紛に巻き込まれ、1766年(明和3年)門弟に謀反の疑いがあると幕府に密告され、逮捕されて翌年の1767年(明和4年)門弟の藤井右門とともに処刑された。倒幕思想の先駆けとなり、幕府に対し最期まで大義名分を説き王政復古を唱えたとされる(明和事件)。 倒幕が成就するのはその百年後である。