姓は「九島」・「久島」・「櫛間」とも表記され、遠江土方城(高天神城)城主だったといわれている。正成の福島氏(クシマシ)の本姓は清和源氏であるが、桓武平氏ともいわれ、はっきりせず、源姓または藤姓の福島正則とは別族であるとされるが、その一方で同族という説もある。 正成の一族は代々今川氏の家臣として仕えた福島氏の一派で、正成が主に活動したのは今川氏親が当主の時代とされるが、史料上は明確ではない。『勝山記』『王代記』によれば、大永元年(1521年)、今川氏親の命を受けた福島一門が甲州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し、現在の南アルプス市戸田に所在した富田城を陥落させる。そこからさらに東進して甲府へ迫るが、飯田河原の戦い、上条河原の戦いで武田信虎に撃退され、この時に武田氏配下の原虎胤(原友胤とも)に討たれたとされる。ただし、虎胤が討った大将福島某と正成と同一人物とする決定的な証拠は無く、否定的な意見も多い。 また、1536年没説では、大永年間の甲斐での戦いに敗れたのち、氏親の後継者の今川氏輝の代まで生き延びたが、氏輝とその弟・彦五郎の死後に発生した家督争い(花倉の乱)で、氏親の側室である福島氏を母とする玄広恵探を同族の誼で支持したが敗れ、今川義元によって福島氏が滅亡させられた際に国を追われ、逃亡先の甲斐にて武田信虎に討たれたとされる。ただし、当時の史料において遠江の福島氏の一族に正成の名は確認されていない。 さらには、正成の一族は、相模の北条氏に仕えていた一族であるとする見解もある。この見解においては、従来、正成の経歴とされていたものは、飯田河原の戦いで戦死した福島某、または今川氏家臣の福島助春の経歴を冒用または誤伝したものにすぎず、「北条綱成の父」以外の経歴は不明ということになる。なお、北条氏の初代である伊勢宗瑞(北条早雲)は、今川氏の客将であった時代があることから、今川氏被官の福島氏の中に宗瑞に従ってそのまま北条氏の家臣となった者がおり、北条綱成の父もその1人であった可能性が指摘されている。 正成については謎が多く、架空説も存在する。
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戦国時代から安土桃山時代の武将。福島氏は摂津源氏の末流を称し、戦国時代には遠江国に住んで今川氏に従った一族で、久島氏と書く場合もある。為基も今川義元・氏真の二代に仕えた。同じく今川氏に仕えた駿河国の岡部氏は親類関係にあった。 永禄12年(1569年)徳川家康が今川氏真を降すと、家康は旧知だった為基を200俵で召し抱えて側近とし、浴室番を務めた。また家康の使者として北条氏照と通交している。天正9年(1581年)の高天神城の戦いでは、敵方に岡部正綱があったためその降伏を仲介している。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは岡部長盛の補佐役として活躍し、長盛が武功を立てると為基もまたその働きを称された。家康が駿府城に移るとその普請を担当し、次いで天正18年(1590年)、江戸城に移ると城下の地割奉行を務めた。
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