清和源氏

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山県国政 土岐原治頼

 号は山県先生、もしくは山県三郎。系譜上、従兄弟にあたる源頼政の養子となっていたとされ、父より美濃国山県郡の所領を継承する一方、都で斎院次官などを務めて従五位下に昇ったとされる。その詳しい動向は不明であるが、以仁王の挙兵で自害した頼政の首は国政の美濃の領地内(現在の岐阜県関市蓮華寺)に葬られたという伝説が存在する。
 4人の息子たちもそれぞれ美濃国内に所領を有し、美濃源氏山県氏族として勢力を持った。

 美濃国守護・土岐政房の3男として生まれ、初めは「大須三郎」と名乗っていたが、土岐原氏の要請を受けて永正年間に前当主であった土岐原景成の養女を娶って婿養子として家督を相続した。
 土岐原氏は元は土岐氏の庶流の一つで単に「原氏」と呼ばれており、美濃国恵那郡遠山荘原郷を根拠としてきたが、原秀成が関東管領・上杉憲方に従って関東に下向して常陸国信太郡に所領を与えられたことから同地に定着するようになる。以後、原氏は近接する下総国の原氏(千葉氏一族)との区別の意味も含めて「土岐原」と号するようになった。だが、明応6年5月17日(1497年6月17日)に秀成の曾孫にあたる4代目・景成の死後、後継者が定まらずに家中が混乱し、その間に隣接する小田氏に江戸崎城を奪われてしまう有様であった。このため、土岐原氏の家臣団は宗家当主である美濃守護の土岐政房に次期当主の選定を要請したのである。新当主となった治頼は関東管領・上杉憲房らの支援を受けつつ旧領奪還に成功し、大永年間には景成時代の勢力圏を回復した。
 ところが、天文11年(1542年)に兄である美濃守護・土岐頼芸が斎藤道三によって領国を追われると、常陸にいる実弟の治頼にも救援の要請が出された。後に頼芸は美濃奪還工作に失敗して遠く江戸崎まで落ち延びて、天文12年(1543年)頃、系図及び家宝を治頼に譲渡した。以後、治頼は土岐宗家の当主として家名を旧の「土岐」に戻して南常陸に名門土岐氏の再興を図るべく、小田氏との戦いを続けて、一時は小田氏側の岡見氏を傘下に置くなど優勢を保った。
 だが、小田氏が関東において急速に台頭する後北条氏と手を結ぶと、上杉氏側にあった治頼は次第に苦境に立たされていく。更に佐竹氏の南下も加わってその対応に苦慮する中で病死した。