清和源氏

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源 頼政 源 仲綱

 平氏が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政ともいう。
 青年期の頼政について史料は乏しいが、父の仲政が下総守に赴任した時に、これに同行している。保延年間(1135~40年)頃に家督を譲られ、保延2年(1136年)に従五位下蔵人に補任された。頼政は鳥羽院に仕え、寵妃の美福門院や院近臣の藤原家成と交流を持っている。
 保元元年(1156年)の保元の乱では、美福門院が支持する天皇方に与し勝者の側となった。保元3年(1158年)、頼政は院の昇殿を許されている。続く平治元年(1159年)12月の平治の乱でも、頼政は最終的には二条天皇を擁する清盛に味方した。 
 頼政は平氏政権下で中央政界に留まり、源氏の長老の位置を占めた。仁安2年(1167年)、従四位下に昇叙。頼政は大内守護として、嫡男の仲綱とともに二条天皇,六条天皇,高倉天皇の三代に仕え、また後白河法皇の武力として活動している。また歌人としても知られ、その詠歌は『詞花集』以下の勅撰和歌集に計59首入集しており、家集に『源三位頼政集』が残る。
 晩年は官位への不満をもらす歌が多くなってなり、「のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな」の和歌を詠んだところ、治承2年(1178年)、平清盛は頼政の位階が正四位下(従三位から公卿)に留まっていたことを知り、清盛の推挙により念願の従三位に昇叙したという。史実でもこの頼政の従三位昇進は相当破格の扱いで、九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているほどである。清盛が頼政を信頼し、永年の忠実に報いたことになる。この時、頼政74歳。
 翌治承3年(1179年)11月、頼政は出家して家督を嫡男の仲綱に譲った。この頃、平氏政権と後白河院政との間で軋みが生じていた。治承3年(1179年)11月、法皇と対立した清盛は福原から兵を率いて京へ乱入してクーデタを断行、院政を停止して法皇を幽閉する挙に出る(治承三年の政変)。翌治承4年(1180年)2月には、清盛は高倉天皇を譲位させ、高倉と清盛の娘徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させた。
 これに不満を持ったのが天皇即位の望みを絶たれた後白河法皇の第三皇子の以仁王(高倉宮・三条宮)である。頼政はこの以仁王と結んで平氏政権打倒の挙兵を計画する。
 挙兵の動機について、『平家物語』では仲綱の馬を巡って清盛の3男の宗盛がひどい侮辱を与えたことが原因であるとし、頼政は武士の意地から挙兵を決意して夜半に以仁王の邸を訪ね、挙兵をもちかけたことになっている。一方で、代々の大内守護として鳥羽院直系の近衛天皇,二条天皇に仕えた頼政が系統の違う高倉天皇,安徳天皇の即位に反発したという説もある。また、以仁王との共謀自体が頼政挙兵の動機を説明づけようとした『平家物語』の創作で、5月21日の園城寺攻撃命令に出家の身である頼政が反抗したために、平氏側に捕らえられることを恐れて以仁王側に奔ったとする説もある。
 同年4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家(為義の子)を伝達の使者とした。だが5月にはこの挙兵計画は露見、平氏は検非違使に命じて以仁王の逮捕を決める、だが、その追っ手には頼政の養子の兼綱が含まれていたことから、まだ平氏は頼政の関与に気付いていなかったことがわかる。以仁王は園城寺へ脱出して匿われた。5月21日に平氏は園城寺攻撃を決めるが、その編成にも頼政が含まれていた。その夜、頼政は自邸を焼くと仲綱,兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、以仁王と合流。平氏打倒の意思を明らかにした。
 挙兵計画では、園城寺の他に延暦寺や興福寺の決起を見込んでいたが、平氏の懐柔工作で延暦寺が中立化してしまう。25日夜、園城寺も危険になり、頼政は以仁王とともに南都興福寺へ向かうが、夜間の行軍で以仁王が疲労して落馬し、途中の宇治平等院で休息を取った。そこへ平氏の大軍が攻め寄せ、26日に合戦になり、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう。頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが多勢に無勢で、子の仲綱,宗綱,兼綱が次々に討ち死にあるいは自害し、頼政も辞世の句を残し渡辺唱の介錯で腹を切って自害した。享年77。
  「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりけり」
 以仁王は脱出したが、追いつかれて討ち取られた。頼政と以仁王の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝,源義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。

 久寿2年(1155年)、守仁親王(後の二条天皇)が立太子されると蔵人に補され、東宮に仕えた。平治元年(1159年)、父・頼政は平治の乱で平清盛に味方し、その結果、源義朝の河内源氏は没落するが、摂津源氏は平氏政権下の中央に留まることになった。
 乱の後に義朝の3男・源頼朝が伊豆国蛭ヶ小島へ配流となったが、この時期に仲綱は伊豆守となっており、一説には流罪の身となった頼朝を伊豆へ運んだのは、頼政の配下の摂津渡辺氏だともされる。
 平氏政権下における仲綱の動向としては、仁安3年(1168年)に伊豆守であった仲綱が国内の不作によって朝廷に献じる五節舞の舞姫の費用を弁じることができない旨の請文が現存しており、頼政・仲綱父子の動向を知る数少ない史料となっている。そのほか大内守護の任にある仲綱は頼政とともに天皇や法皇に仕え諸行事に供奉しており、また父祖同様に歌人としての活動が知られ、九条兼実ら貴顕の主催する歌会・歌合に出席し、その詠歌が『千載和歌集』に6首入集している。
 父の頼政は家門の誉まれとして従三位(公卿)に昇ることに望みをつなぎ続け、70歳を過ぎても家督を仲綱に譲らずにいた。その願いが叶い治承2年(1178年)12月、清盛の推挙により頼政は従三位に叙され、翌治承3年(1179年)11月、出家した頼政より家督を譲られる。
 治承4年(1180年)4月、頼政・仲綱父子は後白河法皇の第三皇子・以仁王とともに平家打倒を謀った。その動機について、『平家物語』では、仲綱が所有していた「木の下」(または「九重」)という名馬を清盛の3男の宗盛が権勢を笠に強引に奪い、しかもその馬に「仲綱」という名をつけて侮辱したのがきっかけだったと言われている。暗愚の将・宗盛という人物像を印象づける逸話であるが、事実かどうかは不明である。
 挙兵計画は以仁王の名で平家追討の令旨を大寺社や諸国に雌伏する源氏に下し、その蜂起の呼びかけの名義人が「前伊豆守源仲綱」であった。5月になって挙兵計画は準備不足の段階で漏洩してしまう。同年5月21日夜に父・頼政、弟の兼綱らとともに自邸を焼いて京を退去し、園城寺に逃れていた以仁王と合流し挙兵の意思を明らかにした。
 だが、平家の調略で延暦寺は動かず、園城寺も危険になったため、南都興福寺へ向かう。26日に平知盛率いる追討軍に追いつかれ、宇治川をはさんで平家方の大軍と合戦になった。頼政と仲綱が大将となって防戦するが、平家方に強攻渡河されて防御陣は崩れる。仲綱らは以仁王を逃すべく平等院に籠って必死で戦い、仲綱は戦い続けたが満身創痍になって平等院釣殿で自害した。享年は55とも。
 老齢の頼政は腹を切って自害し、頼政養子の兼綱,仲家(源義仲の兄),仲綱嫡男・宗綱らも最期をともにしている。仲綱の次男の有綱とその弟で4男の成綱は知行国の伊豆にいたため生き残り、伊豆での源頼朝の挙兵に参加、有綱はのち源義経の婿となる。3男の頼成も知行国にいたため難を逃れたが、兄の有綱が源義経の家臣になると、有綱に従い義経に仕えた。のちに頼朝が下した義経追討により有綱が討たれると、兄弟の成綱,広綱(頼政の3男で仲綱の養子)と甥の宗仲(宗綱の次男)、叔父の国政(頼政の従兄弟で養子)、頼兼(頼政の2男)らと那須塩原に逃れる。

源 宗綱 源 頼成

 治承4年(1180年)5月、祖父・頼政、父・仲綱らは以仁王を擁して平家に叛旗を翻す。宗綱はこの戦いに一家の嫡男として参加し奮戦するが、やがて衆寡敵せず敗北し、宇治平等院にて一族もろとも自害して果てた。
 宗綱本人は若くして死去したが、孫の源宗重(蓮位)が親鸞の弟子となったことを契機に、その子孫は本願寺の重臣・下間氏として発展する。戦国時代には一向一揆において中心的役割を果たし、さらに降って江戸時代には一族から池田重利が出て一万石を領し大名に列した。 

 六条天皇の頃(1165~68年)、美濃国嶋田村(岐阜県養老町)に移住。御田代(神田)を備えた國津明神(田代神社)を深く崇敬し、「田代冠者頼成」と自称した。
 頼政,仲綱らが以仁王と共に挙兵して討ち死にした時には知行国に滞在していたため、難を逃れる。
 寿永元年(1182年)、源頼朝の命により土佐国の蓮池家綱,平田俊遠掃討に赴き、源義経の与力となった兄の有綱に追従した。のちに頼朝が下した義経追討により有綱が討たれると、兄弟の成綱,広綱と甥の宗仲,叔父の国政,頼兼らと那須塩原に逃れた。頼朝の死後は追捕を許され幕臣となる。
 子孫は南北朝時代に征西将軍・懐良親王の護衛として越後新田氏と共に九州に渡った。 

大河内有綱 源 広綱

 治承4年(1180年)、以仁王の挙兵の際には、弟の成綱とともに祖父の知行国であった伊豆に滞在しており難を逃れた。直後に同地で配流の身であった同族の源頼朝が挙兵するとその麾下に入り、父祖の仇敵である平家討滅を目指すことになる。
 寿永元年(1182年)、頼朝の命により土佐に出陣する。これは頼朝の同母弟の希義を殺害した蓮池家綱,平田俊遠ら平家方勢力の掃討を目的としており、土佐出身の御家人・夜須行宗を先導に立てたものだった。この戦いで有綱は行宗とともに大軍を統括し、蓮池らを討ち果たすことに成功している。これと前後して、頼朝の弟である源義経の与力に組み込まれる。家柄や官位、年の頃も義経と差はなく、家臣というより同盟者に近い関係であったとも考えられている。
 また『吾妻鏡』の元暦2年(1185年)5月19日条に、有綱が義経の婿であると称して多くの荘園公領を掠め取っているとの記録があることから、有綱は義経の女婿とされている。しかし義経が平泉時代に娘をもうけたとしても10歳未満であり、すでに成年である有綱とは年齢が合わず、養女の可能性が高い。そのことの真偽はともかく、有綱が義経の忠実な部将として行動したのは事実であり、頼朝と義経が対立した後も都を落ちる義経の一行に加わっている。途中で、一族の多田行綱らとの合戦(河尻の戦い)にも加わったものと考えられ、九州へ向かう船が暴風雨によって難破し一行が離散した時も、有綱と武蔵坊弁慶,堀景光,静御前の4人のみが残っており、義経と共に吉野山に逃げ込んでいる。
 その後、義経と別れ、有綱は郎党と共に大和国宇陀郡に潜伏するが、文治2年(1186年)6月16日、義経の残党を捜索していた北条時定の手勢に発見され、合戦の末に敗北し深山に入って自害した。
 有綱の死から5年を経た建久2年(1191年)11月14日、家人であった前右兵衛門尉・平康盛が鎌倉に潜伏し、由比ヶ浜で梶原景時に捕らえられている。康盛は景時に素性を問われても明かさず、直に頼朝に訴えたいとして御簾越しに頼朝と対面し、有綱の仇である北条時定を討つつもりであったことを述べた。鶴岡遷宮の後に罪状の沙汰が出され、康盛は12月6日、腰越で梟首された。
 「義経の聟」の意味については、『愚管抄』に関白・藤原基実が「信頼が妹に聟とられて有ければ」(基実は信頼の妹と結婚して信頼の聟となった)とあるように、妹の夫=聟を意味する場合もあり、この場合「義経の聟」は妹聟であると考えられる。逃亡した有綱が潜んでいたのは義経の母・常盤御前に縁のある大和国宇陀郡であり、都で常盤と義経の妹(有綱の妻と推測される)が鎌倉方に捕らわれた12日後に有綱が潜伏先を襲撃されていることから、彼らもしくはその周辺から情報が漏れたものと思われる。また史料による根拠はないが、義経に対する佐藤継信・忠信兄弟の普通でない奉仕ぶりから、有綱の妻は平泉時代に義経と佐藤兄弟の姉妹との間に生まれた娘であるとする説もある。
 栃木県塩原の伝承によると、終焉の地は下野国であったとも云われるが定かではない。那須塩原市の中塩原温泉には鎌倉に追われた有綱が再起を図るために潜んでいたと伝わる「源三窟」と呼ばれる鍾乳洞がある。 

 頼政,仲綱らが以仁王と共に挙兵し討ち死にした時、仲綱の次子・有綱と共に知行国の伊豆におり、伊豆で挙兵した鎌倉の源頼朝の傘下で平氏追討軍に加わる。寿永3年(1184年)6月5日、小除目により一ノ谷の合戦の褒章として頼朝の推挙に基づいて従五位下駿河守に叙任される。頼朝は同じ清和源氏の一門には冷たく当たる傾向があったが、その一方でこの広綱や足利義兼(源義兼),平賀義信(源義信)などは厚遇し、あえて格差をつけるようなことも行った。
 広綱の義弟である有綱は源義経の婿となって終始義経と行動を共にしたため、頼朝によって自害に追い込まれた。広綱はこの事件に連座せず、文治5年(1189年)奥州合戦に従軍。さらに建久元年(1190年)11月に頼朝の上洛に随行するが、翌月頼朝が関東に下向するその日の朝、家人にも行方を知らせずに突然逐電した。翌年6月、神護寺の文覚によって広綱が遁世して上醍醐にあることを鎌倉に報じた。逐電の理由は、頼朝の右大将拝賀の際に供奉人に選ばれなかったこと、駿河国の国務について希望がかなえられなかったことだという。 

源 兼綱 木山正親

 父・頼行が若くして自害したため兄弟と共に伯父・頼政の養子となり、平氏政権下の都で検非違使を務めた。治承4年(1180年)5月に養父・頼政が以仁王を奉じて打倒平家の兵を挙げると、当初平家方は乱の首謀者が頼政であることを把握しておらず、以仁王追捕のために招集した検非違使の中に兼綱を含めていた。兼綱は頼政にこの動きを急報。これを受けた頼政は至急以仁王を園城寺に移し、事件は一気に急展開を見ることになる。
 その後、義兄弟にあたる源仲綱,仲家および渡辺党の面々らと共に頼政の下に参じ、園城寺から南都へ逃れる途中、宇治平等院で頼政を守って壮絶な戦死を遂げた。『平家物語』には「聞ゆる大力なり」と記され、上総判官・藤原忠綱以下平家勢との奮闘の様子が描かれている。また『玉葉』もその猛烈な戦いぶりを評して「兼綱の矢前に廻る者無し、宛も八幡太郎(源義家)の如しと云々」と伝えている。
 子の顕綱は三河国額田郡大河内へ落ち、智慧伊豆と謳われた松平信綱などを輩出した大河内氏は顕綱の末裔とされる。

 

 阿蘇氏の客将として生まれる。生誕した場所は分かっていない。どもり癖(吃音症)であったため、「どもり弾正」とも呼ばれた。近隣に知れ渡る程の剛勇の士であったと伝えられる。龍造寺隆信の跡を継いだ龍造寺政家との関係が悪化したために、縁戚である天草種元に客将として迎えられた。
 天正17年(1589年)、豊臣秀吉によって九州が平定された後、小西氏の与力とされていた天草衆が、小西行長の築城普請を拒否するという事態が発生し、加藤清正,小西行長らの討伐軍が攻め寄せると、正親は志岐麟泉と共にこれを迎え撃った。ところが、麟泉は討伐軍の兵力の多さの前に戦意を喪失し、戦わずして撤退すると、正親は一戦も交えずして退却はできぬと、兵500を率いて清正の軍に早朝、奇襲をかけた。正親は単騎で敵将・清正を求めて、敵中深く突入し、清正を見つけると一騎討ちを挑んだ。
 なお、一騎討ちの経緯はいくつか説がある。正親は清正を組み敷き首級を挙げんというところまで追い詰めたものの、主君危うしと駆けつけた正親の家来に「下か上か」と訪ねられ、どもり癖のあった正親より先に清正が「下だ!」と叫んだために、誤って家臣の槍にかかり死亡したという説と、清正が「太刀で戦おう」と槍を捨て正親に呼びかけ、決闘に応じた正親が弓を置くと、清正はすかさず槍を拾い、正親を討ち取ったという説がある。
 その後、正親の子である横手五郎は清正の暗殺を計画したが、清正の配下に正親の子と見破られ、そのまま殺された。正親の妻であるお京の方は敵討のため、正親の甲冑を着て男装して清正に挑んだが、虚しくも男装を見破られ殺された。

源 頼兼 源 頼茂

 安元2年(1176年)6月に大番役をしていた郎従が窃盗事件を起こし京中で騒ぎとなるが、『玉葉』に見えているこの記事の中で頼兼は「美乃源氏頼光末葉」と記され、また九条院の非蔵人を務め五位となっていたことが確認できる。治承4年(1180年)5月の以仁王の挙兵における動向は詳らかでなく、寿永2年(1183年)7月の木曾義仲入京後に行われた源氏諸将を中心とする京中守護軍の編成において「源三位入道子息」として大内裏の警護を命ぜられる。
 以後、大内守護(皇室警護近衛兵)の任を継続しながら在京御家人として度々京と鎌倉を往来している。文治元年(1185年)5月には久実なる家人が清涼殿で御剣を盗んだ犯人を捕らえるが、直後、鎌倉に下ってこれを頼朝に話し久実に剣を与えられている。同年6月、平重衡の南都引き渡しに際して鎌倉からの護送にあたる。同年10月には件の窃盗犯逮捕の功により従五位上に昇叙。
 文治2年(1186年)3月には平家没官領の中から返されていた父・頼政以来の所領である丹波国五箇庄を後白河法皇が自領に組み込もうとしているとして頼朝に嘆き申し出ている。これに対して頼朝も後白河に取り次ぐ約束をしている。同4年(1188年)正月、頼朝の三島大社等の参詣に兄弟の広綱と共に随行。
 建久元年(1190年)6月、大内守護には頼朝の指示により北陸道の御家人が副えられていたが人手が足りぬ旨を頼朝に申し出ている。同5年(1194年)3月、仁寿殿前で大内裏放火未遂犯を捕え梟首した。この報を受けた頼朝は先祖に倣い大内守護として度々勲功を顕す頼兼に感心している。同年12月には宮内大輔藤原重頼と共に鎌倉に下り永福寺薬師堂供養等に随行。また同6年(1195年)3月の頼朝の東大寺参詣にも随行している。元久2年(1205年)に石見守となる。 

 父・頼兼と同じく都で大内裏守護の任に就く一方、鎌倉幕府の在京御家人となって双方を仲介する立場にあった。しかし、承久元年(1219年)7月13日、突如、頼茂が将軍職に就くことを企てたとして後鳥羽上皇の指揮する兵にその在所であった昭陽舎を襲撃される。頼茂は応戦し抵抗するものの仁寿殿に篭り火を掛け自害し、子の頼氏は捕縛された。
 上皇が突如頼茂を攻め滅ぼした明確な理由はわかっていないが、鎌倉と通じる頼茂が京方の倒幕計画を察知したためであろうとする説もある。また、この合戦による火災で仁寿殿,宜陽殿,校書殿などが焼失し、仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など複数の宝物が焼失したという。