清和源氏

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八島重実 佐渡重成

 鳥羽院西院の武士。保元の乱,平治の乱に源義朝方で参戦。佐渡源太と号した。
 承暦3年(1079年)、父重宗が美濃国において源国房と合戦を行った際、重実もこれに随行したらしい。天仁2年(1109年)、検非違使左衛門尉源義忠殺害の嫌疑により左大臣源俊房の邸内で逮捕される。但し犯人は源義綱(義忠の叔父)と判明し、義綱は佐渡に流された。重実のその後の消息は不明だが、保延3年(1137年)勅勘により出家したという。なお『尊卑分脈』によれば、鳥羽院武者所に伺候し、鳥羽院の四天王の一人に数えられたとの記述がある。

 佐渡式部大夫と号す。官位は式部丞を経て昇殿、従五位下,近江守。
 保元元年(1156年)7月、保元の乱で後白河天皇方で源義朝と行動をともにする。従五位下式部丞に昇進し、式部大夫を称す。乱の後、捕らえられた敵方の崇徳上皇を仁和寺から鳥羽付近まで護送した。
 平治元年(1159年)12月、平治の乱においても義朝の麾下に参加。この時は義朝軍が一時拘束した後白河上皇を護送し、さきの崇徳上皇の例と合わせて「二代の上皇を護送した」として世上大きな話題になった。
 しかし平清盛軍の前に敗走し、義朝とともに僅かな人数で東国を目指して落ち延びる。途中、美濃国にて落武者狩りの一団に遭遇した際、義朝を逃した上で「我こそは源義朝なり」と名乗って自決した。その際に、身元が割れないように自ら散々に顔面を傷つけた上で果てたという。

八島重貞

 山田先生と称した。保元元年(1156年)の保元の乱においては、兄の重成と共に後白河天皇方に属して勝利した。この際、自らが放った矢が敵方の左大臣藤原頼長の首筋に命中したという(その傷が元で頼長は落命)。その後、源為朝を近江国坂田付近で捕縛。その功績によって右衛門少尉または筑後守に任ぜられた。
 嘉応元年(1169年)の延暦寺強訴入京(嘉応の強訴)に際しては、郎党を率いて内裏の修明門を死守した。治承4年(1180年)の以仁王の乱に際して、源頼政に従い反平家の兵を挙げたが敗北。領地のある美濃国を目指す途上で死去した。