G201:源 頼信 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義朝 | G202:源 義朝 |
リンク | G203・G205 |
源 義朝 | 源 義平 |
---|---|
少年期に都から東国へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。丸氏,安西氏や坂東平氏の一部(三浦氏,上総氏,千葉氏など)からも連携して庇護された。義朝の東国下向については、近年では為義から廃嫡された結果とする説もある。東国で成長した義朝は、南関東に勢力を伸ばし、東国の主要武士団を統率して河内源氏の主要基盤となるに至った。三浦義明,大庭景義ら在地の大豪族を傘下に収め、それまでの居館があった鎌倉郡沼浜から高祖父の頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館(亀谷殿)を移した。義朝の勢力伸張は、下野国足利郡足利に本拠を置く大叔父である義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり対立を生んだが、その後、同盟を締び盟友となることで解消され、義国の嫡男・義康と相婿となるなど連携を強めた。20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し、その活躍が都にも知られるようになり、中央進出への足掛かりを掴んだ。 |
久寿2年(1155年)、父・義朝が叔父の源義賢と対立した際には、義賢の居館武蔵国比企郡の大蔵館を急襲し、義賢や義賢の舅・秩父重隆を討ちとって武名を轟かせた。この合戦は秩父一族内部の家督争いに端を発したものに、源氏内部の争いが結びついたものである。なお、この事件の後に義平が処罰されていないのは、当時、武蔵守であった藤原信頼と義朝が関係を深めており、信頼の黙認があって起こした事件であるからとする説がある。この大蔵合戦以降「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになった。この「悪」は善悪の悪ではなく、「強い」「猛々しい」というほどの意味であり、「鎌倉の剛勇な源氏の長男」という意味である。 |
源 朝長 | 源 頼朝 |
保元4年(1159年)2月、鳥羽天皇皇女姝子内親王が二条天皇の中宮として立后した際、その中宮少進に任じられている。また、この頃には従五位下の位階を得ていた。同じころ異母弟の頼朝は、女院号を得た上西門院の蔵人に任じられている。 |
清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の3男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政,北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍(鎌倉殿)に任じられ、東国に独立した武家政権・鎌倉幕府を開いた。 詳細はWikipedia(源頼朝)を参照 |
大姫 | 源 頼家 |
治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃、北条政子との最初の子として誕生。大姫が数え3歳の時に頼朝が挙兵している。 |
寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。幼名は万寿。鎌倉入り3年目に待望の後継者男子として、周囲の祝福を一身に受けての誕生であった。政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備を行い、頼朝が自ら監督を行った。頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である比企能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女・河越尼(河越重頼室)が呼ばれた。その他の乳母として梶原景時の妻のほか、比企尼の3女(平賀義信室),能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。 頼家の側近は、比企三郎,比企時員,小笠原長経,中野能成,北条時房,和田朝盛,源性,義印,紀行景,平知康などであり、政治的後見人は梶原景時と比企能員であった。いずれも頼朝によって指名された人物である。 |
源 一幡 | 源 公暁 |
建久9年(1198年)、2代将軍・源頼家の長子として誕生。翌年、祖父・頼朝が死去し父・頼家が家督を相続した。一幡が6歳となった建仁3年(1203年)7月に頼家が重病となり、危篤状態に陥ると家督相続を巡って一幡の母の実家・比企氏と、頼家の母方の外戚・北条氏が対立し、比企能員の変が起こる。 |
正治2年(1200年)、2代鎌倉殿・源頼家と正室・辻殿の嫡男として誕生。幼名は善哉。 頼家の子で次男、辻殿の出産した初の男子である。祖父・源頼朝の死から翌年のことである。『吾妻鏡』によれば、母は足助重長(加茂重長)の娘の辻殿であるが、『尊卑分脈』などによれば一幡の母と同じく比企能員の娘若狭局、縣篤岐本『源氏系図』によれば三浦義澄の娘となっている。 |
源 鞠子(竹御所) | 源 実朝 |
第2代将軍・源頼家の娘。位記の名は鞠子、妙本寺の寺伝によれば媄子とされるが、どちらも本名ではないとされる。一幡、公暁は異母兄または同母兄、栄実は異母兄、禅暁は異母兄または異母弟と考えられている。母は『尊卑分脈』では源義仲の娘となっており、また『諸家系図纂』所収「河野系図」には河野通信と北条時政の娘の間に生まれた美濃局を母と伝えるが、「竹の御所」は比企ヶ谷の比企氏邸跡であることから、実際の母は比企能員の娘・若狭局と考えられる(美濃局については竹御所の乳母とされる)。 |
建久3年(1192年)8月9日巳の刻、鎌倉で生まれる。幼名は千幡。乳母は政子の妹・阿波局,大弐局ら御所女房が介添する。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われる。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ、面々に千幡を抱かせる。 4月、義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、義盛は兵を挙げ、戦いは3日酉の刻に義盛は討たれ、合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると、侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った(和田合戦)。 9月19日、日光に住む畠山重忠の末子・重慶が謀反を企てるとの報が届くと、実朝は長沼宗政に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は命を奪っことは粗忽の儀が罪であると述べ、宗政の出仕を止める。閏9月16日、兄・小山朝政の申請により実朝は宗政を許す。11月10日、頼家の遺児が政子の命により御所で出家する(法名は栄実)。23日、藤原定家より相伝の『万葉集』が届く。 |
源 貞暁 | 源 希義 |
母・大進局は大倉御所に出仕する侍女であったが、頼朝の寵愛を受け懐妊する。しかし頼朝の正室・北条政子がこれに気づいたため、その怒りを畏れた頼朝によって遠ざけられ、家臣の長門景遠の宅にて男児を出産する。政子の嫉妬を恐れて出産の儀式は省略され、景遠は母子を匿ったことを知った政子の勘気を蒙り、子を連れて逃げ深沢の辺りに隠居した。その後も政子を恐れて乳母のなり手がないなど、人目を憚るようにして育てられる。異母弟の実朝が生まれる3ヶ月前の建久3年(1192年)5月19日、7歳の時に仁和寺の法眼・隆暁(一条能保の養子)に弟子入りして出家するため上洛する。頼朝は出発の夜、密かに息子の元を訪れ、太刀を与えている。 |
平治元年(1159年)の平治の乱で父兄が滅亡した後、駿河国香貫にて母方の伯父・藤原範忠によって朝廷に差し出され、乱後の処分で永暦元年(1160年)3月11日に土佐に流罪と決められた。以降「土佐冠者」と号し、そのまま流刑地にて成人した。 |
吉良希望 | 阿野全成 |
『吉良物語』によると希義の死後程なく、希義が通っていた平田経遠の娘が男子を生んだとされる。 |
平治の乱で父・義朝が平清盛と戦って敗れて殺されたため、幼くして醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗る。ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。 |
阿野時元 | 愛智円成(義円) |
母が北条氏であるため、4男であるが嫡男とされた。父・全成が殺害されたとき、時元は外祖父である北条時政や伯母の政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国東部の阿野荘に隠棲した。 |
初め園城寺にて出家して卿公円成となり、後白河天皇皇子である円恵法親王の坊官を務めていた。「卿公」は母が再婚した養父の一条大蔵卿にちなむ命名と考えられるため、養父の縁故によって円恵に仕えたと見られる。その後、時期は不明だが父である義朝から一字とって義円と改名している。 |
愛智義成 | 源 義経 |
外祖父(父・義円の妻の父)の慶範は尾張国愛智郡(愛知県愛知郡)の郡司であったとされる。この縁により、父・義円が墨俣川の戦いで戦死した後は同地において養育され、長じた後は愛智蔵人を名乗り愛智氏の祖となったという。 |
源義朝の9男として生まれ、牛若丸と名付けられる。母・常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若と乙若と共に逃亡し大和国へ逃れる。その後、常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる。後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺の覚日和尚へ預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。 やがて遮那王は僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、『平治物語』では承安4年(1174年)3月3日桃の節句に鏡の宿に泊まった際に元服し、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍の藤原秀衡を頼って平泉に下った。なお、『義経記』では父・義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという。
詳細はWikipedia(源義経)を参照
|