清和源氏

G201:源  頼信  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 G411:源 義光

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源  義光 岡田親義

 近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎と称した。後三年の役で長兄の義家が清原武衡,家衡に苦戦しているとの知らせを受けると、官奏して東下を乞うたが許されず、寛治元年(1087年)に官を辞して陸奥国に向かい、義家と共に金沢柵で武衡,家衡と戦った。京に帰った義光は刑部丞に任ぜられ、常陸介,甲斐守を経て、刑部少輔,従五位上に至った。戦後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。嘉承元年(1106年)、遅れて常陸国に進出してきた甥の源義国と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙る。
 同年の義家の没後、その後継者争いから義家の長男・義親が反乱して討伐され、天仁2年(1109年)、義家の後を継いで源氏の棟梁となっていた甥の源義忠が郎党に殺害された(源義忠暗殺事件)。当初源重実に疑いがかかっていたが、その後嫌疑は藤原季方に向けられ、季方は検非違使と戦い自害し、その父で義光の兄・義綱は東国へ出奔するも源為義によって追討され甲賀山で降伏した(義綱の子息は全員自害)。なお、この一連の事件の黒幕は義光とされる。郎党の鹿島三郎(平成幹と同一人物か?)に命じて義忠を暗殺させ、鹿島三郎は三井寺に逃亡するも義光に組した弟・快誉らの手によって生き埋めにされ殺害されたとされる。この事件自体は義家死後の河内源氏内部の対立があった影響とみられるが、義光の関与を含め真相は不明である。

 仕官を求めて上洛後、左衛門尉となった。保元元年(1156年)に平野神社領(のちに岩清水八幡宮領)であった信濃国筑摩郡岡田郷の浅間神社領の荘官として下向し、岡田冠者と称した。
 治承4年(1180年)に以仁王の令旨での指名を受け、同族の源義仲の重臣として、子の太郎重義・小次郎久義を率いて挙兵した。会田・麻績の戦いや横田河原の戦いで信濃の平氏軍を破るが、寿永2年(1183年)に越中国倶利伽羅峠の戦いで、平知度と相打ちとなり戦死した。
 なお、同じ義光流で甥の佐竹昌義の三男で同姓同名の岡田親義も木曾義仲に従い、倶利伽羅峠の戦いで戦死したとあり、義光の子の岡田冠者親義と混同されている見方もある。

 

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