清和源氏

G411:源  義光  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 平賀盛義 G491:平賀盛義

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平賀盛義 犬甘政徳

 信濃国佐久郡平賀郷に本拠を置いて平賀冠者を称した。父・義光は平賀郷に隣接する甲斐国の国司を務めたことがあり、兄・義清は甲斐国に配流されて以降、甲斐北西部に勢力を扶植して甲斐源氏の祖になっていることから、盛義は兄の勢力と連携しながら甲斐から信濃への進出の流れで平賀郷に所領を形成したと考えられる。
 子の平賀義信は17歳で源義朝の下で平治の乱に加わり、義朝の遺児・源頼朝が挙兵して東国を支配したのち、鎌倉幕府において御家人筆頭の地位を占め、源氏門葉として頼朝に重用されている。 

犬甘氏はもとは大伴氏流とも伝えられる。信濃の戦国大名・小笠原氏に家老として仕え、林城の西方を守る支城の一つ・犬甘城を領有した。天文17年(1548年)、小笠原長時が塩尻峠の戦いで武田信玄に惨敗し、林城へ退却した際、多くの家臣が甲斐武田氏に降伏する中で平瀬義兼,二木重高らと共に小笠原氏に忠節を尽くした。
 同19年(1550年)、長時が林城を捨てて平瀬城に移り、後に葛尾城の村上義清を頼ると、林城の支城は次々と武田方の手に落ちたが、犬甘城と平瀬城は武田氏に対して頑強に抵抗した。しかし、1月も経たないうちに犬甘城は落城した。この後、政徳は平瀬城主・平瀬義兼を頼り、同年に村上義清が砥石城の合戦で武田氏に大勝すると、長時も平瀬城に入った。その後、小笠原氏は武田氏に敗北し、越後国の長尾氏を頼ることとなるが、犬甘氏が小笠原氏に付き従っていた記録は残るものの、政徳自身の記録はない。
 伝承によると、犬甘城のすぐ南にある深志城代となっていた馬場信春が、物見のために苅谷原崎(深志城・犬甘城の北方)まで出てきたところを、村上義清の援軍と勘違いして政徳以下数騎で近寄ってしまい、包囲されて犬甘城に戻ることが出来ずに二木氏の下へ逃亡し、城主不在となった犬甘城は武田氏の攻撃を受けて落城したとされる。 

大内義信 大内惟義

 信濃国佐久郡平賀郷を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。尾張国知多郡内海の長田忠致館で義朝の最期を知った直後、逃亡に成功して生き延びる。その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。
 治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵、更に少し遅れて源義仲が信濃で挙兵する。この時の義信の動向は不明であるが、平家の全盛期は本拠地である信濃の佐久郡平賀郷に逼塞していたと考えられている。寿永2年(1183年)に頼朝が義仲を討つために軍を信濃に出陣し、結果的に義仲の長男・義高と頼朝の長女・大姫の縁組として和解しているが、この時の頼朝軍は碓氷峠を越えて佐久郡に入り、依田城を落して善光寺平で義仲軍と対峙している。この頼朝が義仲に対する優位性を確立した重要な争いにおいて、義仲が挙兵した場所であり、信濃における重要拠点といっていい佐久地方がほとんど無抵抗で制圧されていることから、それは佐久を本貫地とする平賀氏の協力なしになしえたとは考えられない。
 元暦元年(1184年)3月、子・惟義が伊賀国の守護に任じられ、義信自身も同年6月に頼朝の推挙により武蔵守に任官し国務を掌握して、以後長きに渡って善政を敷いて国司の模範とされた。また文治元年(1185年)8月には惟義が相模守となり、鎌倉幕府の基幹国といえる両国の国司を父子で務めることになる。
 また文治元年(1185年)9月、勝長寿院で行われた源義朝の遺骨埋葬の際には、義信と惟義が源義隆の遺児・頼隆と共に遺骨に近侍することを許されるなど、義信への頼朝の信頼は最後まで変わらず、この時期の席次において源氏門葉として御家人筆頭の座を占めている。また頼朝の乳母の比企尼の3女を妻とし、2代将軍・源頼家の乳母父となる。建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちでは、妻の連れ子で義信の養子となっていた河津祐泰の遺児が事件の連座で自害している。正治元年(1199年)の頼朝死後も源氏一門の重鎮として重きをなした。行事交名を見ても、義信より上席だったことがあるのは源頼政の子の源頼兼だけで、義信が源氏一門(門葉)の首座にいたことを示している。
 建仁2年(1202年)3月14日、永福寺で頼家と北条政子が、頼家の乳母を務めた比企の尼3女の義信妻の供養を行っている。建仁3年(1203年)9月に起こった比企氏と北条氏の対立による比企能員の変では、双方と縁戚関係を持つ平賀氏では北条時政の婿である子の平賀朝雅が北条氏側として比企氏討伐軍に加わっている。乱後に3代将軍として擁立された源実朝の元服の際には加冠役(烏帽子親)を務めている。
 没年ははっきりしていないが、『吾妻鏡』の承元元年(1207年)2月20日に「故武蔵守義信入道」とあるので、それ以前であることは確実である。 

 惟義が伊賀国に赴任して以降は大内冠者(大内姓)を称するようになる(戦国大名の多々良姓大内氏とは無関係)。
 元暦元年(1184年)以前の動向は全く不明である。惟義は一ノ谷の戦いの後に、伊賀国守護(惣追捕使)に補任される。伊勢平氏の権力基盤の一部であった伊賀を抑える役割を期待されての人事と思われる。同国大内荘(九条家領の荘園)の地頭職を兼ねたともいわれ、このころから大内冠者と記されるようになる。
 同年6月から7月にかけて伊勢国で三日平氏の乱が起こり、平信兼率いる平氏の残党に襲われ多くの家人を失い、一旦国外へ逃亡する。鎌倉からは平氏方余党の討伐を命じられるが、その指令が届く前に90余人の残党を討って鎮圧した。惟義は乱の鎮圧に対する恩賞を頼朝に求めたが、狼藉を鎮めるのは守護の務めであり、家人を殺害されたのは汝の落ち度であるので恩賞を求めるのは道理に叛くとして却下されている。
 元暦2年(1185年)6月には、頼朝が多田行綱から没収した摂津国多田荘および荘内の在地武士(多田院御家人)の支配を命じられたほか、同年(文治元年)8月の除目で頼朝の推挙によって受領に任命された源氏一門6人のうちの1人として相模守に補任される。また同年9月に鎌倉の勝長寿院で執り行われた頼朝の父・源義朝の遺骨葬送では父・義信と惟義,源頼隆の3名のみが遺骨への近侍を許されている。これは平治の乱で、父・義信が義朝とともに戦い、その折に頼隆父の源義隆が戦死したという所縁による。父・義信は幕府行事の供奉交名において基本的に首位を占め、門葉筆頭として頼朝の信頼を得ていた。
 文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍。翌建久元年(1190年)の頼朝上洛および同6年(1195年)の再上洛にも随行した。
 正治元年(1199年)、頼朝が死去した直後に起こった三左衛門事件では、首謀者の後藤基清らを拘束して院に引き渡した。正治2年(1200年)正月6日、鎌倉で椀飯の沙汰人を務めるが、同月24日には京都で梶原景時与党の追捕を命じられ、2月26日には2代将軍・源頼家の鶴岡八幡宮参詣に御後筆頭として随行するなど、京都と鎌倉を頻繁に往復していた様子がうかがえる。『吾妻鏡』ではその後しばらく所見しなくなり、建暦2年(1212年)3月20日、在京奉公の労により地頭職を拝領したとあるので、在京して鎌倉と京の連絡役を務めていたと思われる。この間の元久2年(1205年)の牧氏事件では北条時政により新将軍に担がれた異母弟の平賀朝雅が北条義時の命により誅殺されているが、惟義は事件に連座せず朝雅が有していた伊勢・伊賀守護を引き継いだ。
 惟義は幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津など近畿6ヶ国の守護に任命される一方、在京御家人の代表として後鳥羽院に近侍して朝廷との接触を深めていった。この時期には源氏一門を抑えて北条氏の幕府内での覇権が確立しつつあり、後に跡を継いだ大内惟信の行動から推測して、「心情的には朝廷方へ荷担する意図があった」と見る向きもある。
 建保7年(1219年)正月27日、実朝が右大臣拝賀のために鶴岡八幡宮へ御参した際(この日、実朝は暗殺される)の『吾妻鏡』の記事中に「修理権大夫惟義朝臣」の名が見えるが、以降の消息は不明でこの年もしくは翌年に死去したものと思われる。
 後鳥羽院が惟義を尊重した理由の一つに、来るべき討幕の日のために歴戦の武将である惟義を味方に付けておきたいという思惑があったと考えられる。もし、承久の乱で若年の惟信ではなく惟義が朝廷軍を率いていたならば、戦況はまた違ったものになっていた可能性もある。 

大内惟信 平賀朝雅

 元久2年(1205年)に叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長,検非違使に任じられ、寺社の強訴を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした。建保7年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺された後、父・惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。しかし、鎌倉幕府は源氏将軍を断絶させた北条氏主導となり、源氏門葉であった平賀(大内)氏は幕府の中枢から離れていくことになる。
 承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と高桑大将軍、その次男の高桑次郎と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙したが敗北し、平賀義信以降、源氏一門として鎌倉幕府で重きをなした平賀(大内)氏は没落した。敗北後、逃亡して10年近く潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され、寛喜2年(1230年)12月、武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された。捕縛の際、力は強いが刀は抜かなかったという。その後、惟信の協力者として仁和寺の僧や郎党3人が捕らえられた。その後一命は許されて西国へ配流となった。子の大内惟時の後裔は堂上家竹内家となり、家系をつないだ。

 建仁2年(1202年)、比企氏出身である母が死去。翌建仁3年(1203年)9月に起こった比企能員の変では、双方と縁戚関係を持つ朝雅は北条氏側として比企氏討伐軍に加わっている。2代将軍・源頼家が追放され、3代将軍・源実朝が擁立された直後、政変による鎌倉幕府の動揺に乗した謀反を防ぐべく京都守護として都に派遣された。
 同年12月、幕府の政変に乗じて伊勢国と伊賀国で平家残党の反乱が起こると、守護の山内首藤経俊が逃走し朝雅に鎮圧が命じられる。翌元久元年(1204年)4月、朝雅はその鎮圧に成功し、その功績により伊賀・伊勢の守護職に任じられる(三日平氏の乱)。また『明月記』によると鎮圧の便宜を図るため、後鳥羽上皇から伊賀国の知行国主に任じられており、御家人としては破格の扱いを受けていた。その後、院の殿上人となって後鳥羽院に重用された。
 建仁3年(1204年)11月、源実朝の御台所を京都から迎えるため、朝廷や公家との交渉役を務める。その際、御台所を迎えるために上洛していた武蔵国の御家人・畠山重保と朝雅の間で口論となった。その時は周囲の取りなしでことは収まったが、翌元久2年(1205年)6月、先の口論に端を発した畠山重忠の乱が起こり、畠山重忠・重保父子が謀反の疑いで討伐される。朝雅が重保との争いを妻の母・牧の方に訴え、牧の方が夫の北条時政に畠山親子に謀反の疑いがあると讒言したためとしている。時政は畠山父子を排斥すべく謀反人に仕立て上げたとされ、時政に畠山討伐を命じられた息子の北条義時・時房は反対したが押し切られ、この事件をきっかけに、時政と義時,政子の対立が決定的になったと『吾妻鏡』は書いている。これは時政の先妻の子(義時)と後妻の娘婿(朝雅)を担ぐ時政との北条家内の対立と、鎌倉に隣接する有力国武蔵の支配を巡る畠山氏と北条氏の軋轢が背景にあったものと考えられる。
 元久2年(1205年)7月、源実朝を廃して朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとした時政が失脚した(牧氏事件)。当時、京都守護を兼ねていた朝雅は8月2日(閏7月26日とも)に京都で、幕府の実権を握った北条義時の命を受けた山内首藤通基(経俊の子)によって殺害された。