G411:源 義光 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 平賀盛義 | G491:平賀盛義 |
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平賀盛義 | 犬甘政徳 |
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信濃国佐久郡平賀郷に本拠を置いて平賀冠者を称した。父・義光は平賀郷に隣接する甲斐国の国司を務めたことがあり、兄・義清は甲斐国に配流されて以降、甲斐北西部に勢力を扶植して甲斐源氏の祖になっていることから、盛義は兄の勢力と連携しながら甲斐から信濃への進出の流れで平賀郷に所領を形成したと考えられる。 |
犬甘氏はもとは大伴氏流とも伝えられる。信濃の戦国大名・小笠原氏に家老として仕え、林城の西方を守る支城の一つ・犬甘城を領有した。天文17年(1548年)、小笠原長時が塩尻峠の戦いで武田信玄に惨敗し、林城へ退却した際、多くの家臣が甲斐武田氏に降伏する中で平瀬義兼,二木重高らと共に小笠原氏に忠節を尽くした。 |
大内義信 | 大内惟義 |
信濃国佐久郡平賀郷を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。尾張国知多郡内海の長田忠致館で義朝の最期を知った直後、逃亡に成功して生き延びる。その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。 |
惟義が伊賀国に赴任して以降は大内冠者(大内姓)を称するようになる(戦国大名の多々良姓大内氏とは無関係)。 |
大内惟信 | 平賀朝雅 |
元久2年(1205年)に叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長,検非違使に任じられ、寺社の強訴を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした。建保7年(1219年)に3代将軍・源実朝が暗殺された後、父・惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。しかし、鎌倉幕府は源氏将軍を断絶させた北条氏主導となり、源氏門葉であった平賀(大内)氏は幕府の中枢から離れていくことになる。 |
建仁2年(1202年)、比企氏出身である母が死去。翌建仁3年(1203年)9月に起こった比企能員の変では、双方と縁戚関係を持つ朝雅は北条氏側として比企氏討伐軍に加わっている。2代将軍・源頼家が追放され、3代将軍・源実朝が擁立された直後、政変による鎌倉幕府の動揺に乗した謀反を防ぐべく京都守護として都に派遣された。 |