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源 義清 | 逸見清光 |
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父の義光は常陸国の平清幹から常陸国那珂郡武田郷を譲り受けると義清に与え、義清は「武田冠者」を名乗る。 |
常陸国那珂郡武田郷で生まれる。1130年(大治5年)、一族の佐竹氏と争い、朝廷より父とともに常陸から追放され、甲斐国八代郡市河荘へ流罪となる。義清・清光は市河荘内の平塩岡に館を構え、義清は市河荘司となっている。義清・清光は甲斐国北西部の逸見荘へ進出し逸見冠者を称する。 |
加賀美遠光 | 大弐局 |
伝承によれば、承安元年(1171年)に宮中に怪異が起こり、高倉天皇は源氏の弓矢の名手として遠光を召され、鳴弦の術を行わせた。遠光は褒賞として不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたという。この不動明王像は現在も山梨県南巨摩郡身延町の大聖寺に安置されており、国の重要文化財に指定されている。さらに遠光は特別に「王」の一字を許されたとされ、加賀美氏の家紋は三階菱の中に「王」の字を配している。 |
遠光は頼朝へ接近を図り一定の地位を確立している。『吾妻鏡』によれば大弐局は文治2年(1188年)7月4日に大倉御所に参上し、頼朝より7歳の嫡男万寿(のちの頼家)の養育係に定められ、9月1日には頼朝と対面して大弐局の名を与えられ、父遠光は盃酒を献じたという。 |
浅利義遠 | 方原師光 |
甲斐国八代郡浅利郷を本拠とした。兄・武田信義,安田義定らと共に源頼朝の幕下に参加する。弓の名手であり、壇ノ浦の戦いや奥州合戦においてもその強弓をもって戦功を立てた。 |
方原師光と呼ばれる経緯については不明となっているが、三河形原郷を中心とする荘園の下司となり同地に居住した。久安5年(1149年)に後の形原城の前進となる居館を荘内に築き統治にあたったとされる。 |