安田氏は甲斐国山梨郡八幡庄内の安田郷を本貫地とする一族で、甲斐源氏が甲府盆地の各地に進出した際に義定が盆地東部に拠り、旧族安田氏を継承したと考えられている。義定は同郡牧庄を根拠地として笛吹川流域の東郡一帯に勢力を持ち、小原庄小原西の妙音寺に館を構えたという。 初見は『吾妻鏡』の治承4年(1180年)8月25日条で、源頼朝が平家討伐を掲げて挙兵し石橋山合戦で敗退した後、義定は工藤景光や市川行房らと富士北麓の波志田山合戦において平家方の駿河目代橘遠茂を撃破している。同年10月には駿河国に侵攻する信義らと共に駿河目代橘遠茂らと戦い勝利する。その後黄瀬川で頼朝の軍と合流。10月20日の富士川の戦いでは信義とともに敵の背後を襲撃し、このときの戦功で信義は駿河国守護に任じられ、義定も遠江国守護になったという。富士川直後では、安田義定らの甲斐源氏は頼朝とは別個の反乱勢力であると見方が現在では強まっている。義定は頼朝とは別個の勢力として遠江国に勢力を張っていた。寿永2年(1183年)、平家追討使として北陸道から上洛した源義仲に対して東海道から上洛し、大内裏守護として京中の守護をし、朝廷から遠江守に任じられる。その後、義仲から離れて、再び頼朝方に加わった。元暦元年(1184年)、宇治川の戦いで源範頼,源義経の軍に参加し、義仲を滅亡させた。 同年、一ノ谷の戦いでは、義経の搦め手軍に属し、平経正,平師盛,平教経を討ち取る。文治5年(1189年)の奥州合戦にも武田信光らと従軍。下総守を歴任、建久3年(1192年)、遠江守に還任した。 甲斐源氏の有力武将は頼朝によって次々と排斥されているが、建久4年(1193年)に義定も子の安田義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、義定も所領を没収されている。翌建久5年(1194年)、義定は謀反の疑いで梟首されている。追討使は梶原景時と加藤景廉で、義定は法光寺(放光寺)において自害したという。
|
|