清和源氏

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木曽義仲 清水義高

 河内源氏の一門で東宮帯刀先生を務めた源義賢の次男として生まれる。幼名は駒王丸。義賢は武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘を娶るが、義仲の生母は遊女と伝えられる。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は義賢が館を構えた武蔵国の大蔵館と伝えられる。
 父・義賢はその兄・義朝との対立により大蔵合戦で義朝の長男・義平に討たれる。当時2歳の駒王丸にも殺害の命が出されるが、畠山重能,斎藤実盛らの計らいで信濃国へ逃れたという。『吾妻鏡』によれば、駒王丸は乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れ、兼遠の庇護下に育ち、通称を木曾次郎と名乗った。また、諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修行したといわれている。こうしたことも関係してか、後に手塚光盛などの金刺一族が、挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。治承4年(1180年)の以仁王の令旨によって挙兵、寿永元年(1182年)、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し以仁王挙兵を継承する立場を明示する。
 寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対し敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた行家が義仲を頼って身を寄せ、この2人の叔父を庇護したことで頼朝と義仲の関係は悪化する。また『平家物語』『源平盛衰記』では、武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したとしている。両者の武力衝突寸前に和議が成立し、3月に義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立は一応の決着がつく。
 4月、平氏は京の兵糧の供給地である北陸道の回復を図り、平維盛を大将として北陸に出陣。越前国で火打城の戦いに勝利した平氏軍は、加賀国に入っても連戦連勝で破竹の進撃を続ける。義仲は今井兼平に6千の先遣隊を率いさせ、平氏軍の平盛俊による先遣隊が陣を張る越中国の般若野を奇襲する(般若野の戦い)。5月11日、義仲は倶利伽羅峠の戦いで10万ともいわれる平維盛率いる平氏の北陸追討軍を破り、続く加賀国での篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。6月25日には、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王を擁して西国へ逃れた。なお平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に登って身を隠し、都落ちをやりすごした。なお、公家の間では東国・北国の反乱の中心を頼朝,武田信義としており、無位無官の義仲は京で存在を知られていなかった。義仲の上洛が迫った7月2日条でも、今回は義仲,行家のみが上洛して頼朝は上洛しないと記されており、『玉葉』著者の九条兼実は源氏勢力を一体視している。このことが入京後の義仲を頼朝代官とする見方を生むことになる。
 7月27日、後白河法皇は義仲に同心した山本義経の子・錦部冠者義高に守護されて都に戻る。義仲は翌日28日に入京、行家とともに蓮華王院に参上し、平氏追討を命じられる。2人は相並んで前後せず、序列を争っていた。30日に開かれた公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになった。同時に京中の狼藉の取り締まりが義仲に委ねられることになる。8月10日の勧賞の除目で、義仲は「朝日の将軍」という称号を得た。
 しかし、義仲と行家の除目争いや皇位継承問題への介入、連年の飢饉と荒廃した都の治安回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化などにより、しだいに後白河法皇と不和となる。後白河法皇は義仲を呼び出し、「天下静ならず。又平氏放逸、毎事不便なり」と責めたという。立場の悪化を自覚した義仲はすぐに平氏追討に向かうことを奏上し、法皇は自ら剣を与え出陣させた。義仲は、失った信用の回復や兵糧の確保のために、戦果を挙げなければならなかった。義仲は腹心の樋口兼光を京都に残して播磨国へ下向した。
 この間、鎌倉の頼朝から朝廷に申状が届く。それは朝廷を大いに喜ばせ、10月9日、法皇は頼朝を本位に復して赦免、14日には寿永二年十月宣旨を下して、東海・東山両道諸国の事実上の支配権を与える。
 義仲は、西国で苦戦を続け、閏10月1日の水島の戦いでは平氏軍に惨敗して有力武将の矢田義清,海野幸広を失う。戦線が膠着状態となる中で義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝の弟が大将軍となり数万の兵を率いて上洛するという情報だった。驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて、15日に少数の軍勢で帰京し、20日には後白河院に激烈な抗議をした。義仲の敵はすでに平氏ではなく頼朝に変わっていた。19日の源氏一族の会合では法皇を奉じて関東に出陣するという案を出し、26日には興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下された。しかし、前者は行家、土岐光長の猛反対で潰れ、後者も衆徒が承引しなかった。義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も公然のものだった。
 11月4日、源義経の軍が布和の関(不破の関)にまで達したことで、義仲は頼朝の軍と雌雄を決する覚悟を固める。一方、頼朝軍入京間近の報に力を得た後白河法皇は、義仲を京都から放逐するため画策し、法住寺殿の武装化を計った。この時点で行家は義仲から離反する。18日に後鳥羽天皇,守覚法親王,円恵法親王,天台座主・明雲も御所に入っている。
 11月19日、追い詰められた義仲は法住寺殿を襲撃する。院側は土岐光長・光経父子が奮戦したが、義仲軍の決死の猛攻の前に大敗した。義仲の士卒は、御所から脱出しようとした後白河法皇を捕縛して歓喜の声を上げた。義仲は法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉する。この戦闘により明雲や円恵法親王が戦死した。21日、義仲は松殿基房(前関白)と連携して「世間の事松殿に申し合はせ、毎事沙汰を致すべし」と命じ、22日、基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。
 11月28日、新摂政・松殿師家が下文を出し、前摂政・近衛基通の家領八十余所を義仲に与えることが決まり、中納言・藤原朝方以下43人が解官された。12月1日、義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握する。10日には源頼朝追討の院庁下文を発給させ、形式的には官軍の体裁を整えた。
 寿永3年(1184年)1月6日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ると、15日には自らを征東大将軍に任命させた。平氏との和睦工作や後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼,義経率いる鎌倉軍が目前に迫り開戦を余儀なくされる。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた義仲に付き従う兵はなく、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した(宇治川の戦い)。戦いに敗れた義仲は今井兼平ら数名の家臣とともに落ち延びるが、21日、近江国粟津で討ち死(粟津の戦い)。享年31。26日、検非違使が七條河原で義仲と郎党・高梨忠直,兼平,行親らの首を獄門の前の樹に掛けた。

 寿永2年(1183年)、頼朝と義仲は武力衝突寸前となると、義仲が11歳の嫡子・義高を人質として鎌倉へ差し出すことで両者の和議が成立した。
 義高は信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。父・義仲が討たれると、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、激怒した頼朝は幸氏を捕らえ、堀親家ら軍兵を派遣して義高を討ち取るよう命じた。義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。享年12。5月1日(6月10日)に義高の残党が甲斐と信濃に隠れ、謀反を企てているとして信濃国に大規模な軍兵の派遣が行われた。
 義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。
 神奈川県鎌倉市常楽寺に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)がある。幸氏と重隆はその後も頼朝に仕えて鎌倉幕府の御家人となっている。 

木曽義基 木曽家村

 朝日三郎義基と号す。『木曽考』『木曽殿伝記』では源義仲の3男とし、木曾氏の祖とする。母は明治時代の『岐蘇古今沿革志』では巴御前とするが根拠に乏しい。
 同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料には記述がなく、また延慶本『平家物語』や『尊卑分脈』では、『吾妻鏡』での源義高に相当する人物が「義基」となっており、義高とは別人で弟とされる義基が実在するかは疑問がある。
 『木曽考』『木曽殿伝記』などによると、元暦元年(1184年)、粟津の戦いで父・義仲が敗死した後、安曇郡の豪族・仁科義重に臣従し、曽山神明宮に庇護され、のちに木曽谷の領主に据えられた。また、義仲が戦死すると、家臣であった今井氏,高梨氏,楯氏,町田・小野沢・萩原・串渕・諸田など諸氏に匿われ、現在の群馬県渋川市北橘村箱田に落ち延びたともされる。当地は義仲が崇敬した信濃国の延喜式内社である筑摩郡の三座「岡田・沙田・阿礼神社」を勧請して創建したと伝えられるのが箱田神社、後の木曾三柱神社と木曾三社神社である。

 元々は上野沼田の豪族で、母方の秀郷流沼田氏の庇護を受けたという。やがて家村は徐々に実力を蓄えて、次弟の家定,三弟の大石信重,末弟の家道とともに北朝方として挙兵し、足利尊氏の傘下に入ったという。
 建武2年(1335年)の中先代の乱では、信州で諏訪頼重とともに挙兵し鎌倉を占拠した北条時行の軍勢と激突し、これを大破し戦功を収めたという。
 このことから、家村は尊氏から絶賛され、安曇郡上野,西光寺,西牧,筑摩郡洗馬,伊那郡高遠という木曾谷を中心とした広大な領土を賜ったという。さらに、近江国の浅須摩,知久間,四ツ木,川瀬をも与えられ、木曾氏復興の祖と称したという。
 しかし、4人の息子たちは家村に先立って夭折したため、甥の家頼(家道の子)を養子に迎え、家督を譲って逝去したという。

馬場利重

 昌次の跡を継いだ利重は、秀忠に仕えて御書院番を務め、のちに目付となり布衣を許された。寛永10年、堀尾忠晴が卒した際には、命を受けて出雲・隠岐両国に赴いている。同12年千石の加増を受け、すべて2600石の知行となった。
 寛永14年、島原の乱が起こると、板倉重昌に属して原城攻めに加わった。翌15年、細川忠利の手の軍監を命じられ、細川の手の諸勢を下知した。一揆平定後、長崎奉行に任じられ長崎赴いている。