清和源氏

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木曽家親 木曽豊親

 正中2(1385)に御嶽神社の若宮を建立し、神領を寄進した。

 

 応永7(1400)に須原と原野の間に道路を造り、同14年には小丸山城(福島城)を築き嫡子の信道を入れた。永享2(1430)には須原に禅院定勝寺を建立し、同6年には信道をして、福島に禅刹興禅寺を創建せしめたとの伝承と事歴を残している。そして、親豊の代における木曽谷全域にわたる領有化は、以後、順調に進んだ。 
木曽家豊 木曽義元

 応仁・文明の大乱中の文明5(1473)、土岐成頼征伐にあたって木曽家豊は小笠原氏と行動をともにし、「信濃木曽殿」と称され守護小笠原氏と同格に認識されていたばかりではなく、将軍家に対して相対的に独立した実態を有する国人領主に成長していたことがうかがわれる。それを裏付けるものとして同7(1475)の伊勢神宮神役の木曽谷通行を保証した家豊返書案文には「小笠原其外国人等相談」とあって、家豊自ら国人としての意識のもと、交通流通経路などの木曽谷地域に関する現地支配権を把握する国人領主として、その体制を整えていたことが知られる。
 そして家豊が文正1(1466)に興禅寺に寄進したといわれる梵鐘銘には、「大檀那源朝臣家豊」とあったことが知られる。このことから、木曽氏が源氏を意識するようになり、木曽義仲の子孫であるという考え方を持つようになったのは家豊の時代であったと考えられる。  

 木曽氏が戦国時代を迎えるのは、義元の時代のあたりからで、義元は小笠原氏に攻められた洗馬の三村氏を援けて出陣し、小笠原氏に勝利している。その後、永正7(1510)、飛騨の三木重頼が木曽に侵攻し、義元はみずから兵を率いて王滝城に入り三木勢に対峙した。ところが、王滝城は三木勢の攻撃によって陥落し、三尾に逃れようとするところを三木勢と合戦となり、このときに受けた傷がもとで義元は死去した。

 

木曽義在 木曽義康

 義元が戦死したとき、嫡子の義在は12歳であった。そのため、叔父の義勝が後見となって政務をとった。このため、木曽の諸士は甲州そのほかに出かけて奉公したという。その後、17歳になった義在は五霊の山に山城を築き、永正10年に将軍足利義稙が六角高頼を討つため近江に出陣したとき、義在も仁科氏とともに出陣し近江国醒ヶ井で戦ったという。
 一方、木曽谷の道路改修にも乗り出し、天文2(1533)には、妻籠から新洗馬までの宿駅を定めた。さらに、美濃国落合から塩尻に抜ける木曽の本道を開いて木曽を通過する旅人を増やし、また、材木の商品化にも努めるなどして経済力を高めていった。このようにして、義在は飛騨の三木氏と修好関係を築き、いたずらに木曽谷から外に向けての所領拡大を図ることなく、内政の充実と安定に富んだ政治状況を木曽谷全域に築いたといわれる。  

 天文12(1542)、義在から家督を相続した義康は、家督を継承する以前より父・義在とはかって、遠山元忠,千村重綱を林城の小笠原長時のもとに遣わして盟約を結び、諏訪の諏訪氏とも友好関係を築きあげ、木曽氏は北信の村上義清、小笠原・諏訪氏と並んで信濃四大将と称されるまでの勢力に成長した。しかし、義康の時代は甲斐の戦国大名・武田信玄の勃興期とも一致していた。
 義康は信玄の軍事行動に対して福島城を拠点に防備を固め、天文18年には信玄の木曽来攻を鳥居峠に迎え撃ち一旦は撃退したものの、同24(1555)春に至って信玄が木曽攻略を本格化すると、ついに義康は信玄に屈服した。
 武田氏に帰服した結果、義康は娘の岩姫を人質として甲府に送り、代わりに信玄の3女を息男・義昌の妻女とする縁組を得た。11月、義康・義昌父子は甲府に赴いて臣従の礼をとり、以後、木曽氏は武田氏の親族衆として厚遇されることになり、木曽谷の領知権は従前通り義康に安堵された。以上のような経緯を経て、武田領国を構成する一支城領主として位置づけられた趣の木曽義康であったが、天文20(1551)春に、武田氏のもとから木曽氏に復帰した古畑重家に対して、その旧地を安堵している。この事例から木曽氏は、一定の勢力範囲である木曽谷の領主・新国主としての地位を確保しつつ、ようやく戦国大名化への色彩を強めていく様子をうかがい知ることができる。 

木曽義昌 上松義豊

 義康の跡を継いだ義昌は、永禄7(1564)、信玄が飛騨の江馬時盛救援のために出兵を試みた際、宿臣の山村氏を派遣して信玄に加勢した。この飛騨派兵後、しばらくの間、小康状態を迎えた木曽谷にあった義昌は、東国の戦国大名の一特徴である印判を捺した知行宛行などの領政文書を家臣に発給して、所領宛行を基礎にした主従制を確立し、領主・新国主としての戦国大名の形容を名実ともに整えて、木曽谷の経営を推し進め木曽地域に戦国大名権力を樹立した。
 元亀4(1573)に信玄が西上作戦の途次死没し、後を嗣いだ勝頼は天正3(1575)年、織田・徳川連合軍と戦った長篠の合戦に敗北して武田氏が衰勢に傾くと、木曽義昌は独立した大名への道を模索するようになる。そして、天正8(1580)夏頃、織田信長の誘いに応じて武田氏に離叛した。義昌の武田氏背反に対して勝頼は義昌を攻撃してきたが、義昌は信長の武田討伐策と連携することによって、武田軍を木曽谷に迎え撃った。さらに織田信忠と合流して府中に進出し、武田氏配下の深志城主・馬場氏貞を甲斐に没落させる戦功を挙げた。天正10年3月、織田軍の甲斐侵攻によって勝頼が滅亡した後、義昌は諏訪において信長に謁し、木曽谷の当知行安堵のほかに安曇・筑摩両郡の一色宛行を受け、深志城主の地位を得た。
 ところが、義昌が深志に在城してわずか3か月後の6月に本能寺の変が起こり信長が横死すると、越後上杉氏の援兵を得た小笠原貞種の来攻を受けて、深志退城を余儀なくされ、再び、もとの木曽谷の領主に逼塞せざる得なくなった。木曽に帰った義昌は、徳川家康に音信を通じて盟約を結び、信長の代に得た安曇・筑摩両郡および木曽谷の本領を家康からそのまま安堵され、それらの地の実質的な領国化に専心した。
 天正12(1584)春、小牧・長久手の役が生じる前後の段階で、義昌は家康との盟約を反故にして、次子・義春を秀吉の人質に入れ秀吉と提携した。その後、家康と秀吉の間に和議が成立し、秀吉は家康に対して関東の差配を委ねるとともに、信濃国諸将の管轄を一任した。これによって、義昌は再び家康の麾下に繰り入れられ、戦国大名としての独自的な領国経営も抑圧され、近世的な封建社会の新秩序のなかに組み込まれることになった。
 天正18(1590)の小田原の陣後、家康は関八州に所替えとなったが、この折、家康傘下の義昌は家康の命のもとに、豊かな山林資源を抱える木曽谷から下総国海上郡阿知戸一万石に移封をみた。この転封によって、多くの譜代の家臣を流浪させるほどに経済的にも逼迫した義昌は、文禄4(1595)年、阿知戸城で不遇な晩年を終えたと伝えられる。

 『信長公記』によれば、天正10(1582)2月、織田信長の甲州征伐において、兄・義昌が武田勝頼を裏切り信長に与した際、義豊は人質として織田氏の家臣・菅屋長頼の許へ送られた。
 義豊はその後、小笠原内蔵助を名乗る。『木曽旧記録』『木曽考』によれば、義昌の跡を継いだ甥の義利とは折り合いが悪く関係は険悪であったとされ、義昌が信長より拝領した「鈴虫」の轡を義豊が掠め取ったとして、慶長年間に義利に殺害された。
 慶長5(1600)、この一件が徳川家康の勘気を蒙り、家康の関東移封により信濃木曽谷から鞍替えされた下総国海上郡阿知戸1万石を没収され、木曾氏は改易となった。 

木曽義利 葦原義長

 父・義昌とともに阿知戸に移住した長子の義利は、叔父の上松義豊との間に不和を生じて、これを殺害するなど粗暴な振る舞いが多く、ために義昌死没後まもなくの慶長5(1600)頃に、家康は義利を追放した。木曽氏の改易は江戸に近い下総に外様大名が存在することを嫌った徳川氏の政策の結果とも考えられる。
 義利の改易後、義利の母・真竜院(信玄の娘)は末子の義通を伴って木曽に帰り黒沢に隠棲した。以後、木曽氏の消息を史料上から知ることはできない。 

 江戸桜田に木曾忠代夫義富の子として生まれた。7歳の時麻疹に罹患して失明したため、当道座岸村検校に入門し、剃髪して英俊と号し、金子勾当,村井快悦,坂幽玄に鍼術を学んだ。
 文化7(1810)、松代藩主・真田幸弘を診療するようになり、文化10(1813)7月、藩主に従い信濃国松代城下に赴任、文化11(1814)帰府し、真田幸専に御目見、衆分として扶持を賜った。
 文化12(1829)4月、火事に類焼し赤沢大沢に転居した。文化12(1815)6月24日、坂幽玄より鍼術免許を与えられた。文政3(1820)5月勾当、文政4(1821)10月26日検校に昇った。文政5(1822)年、松代藩より20人扶持を賜り溜池藩邸に住んだ。
 その後、徳川治済,徳川斉朝,徳川斉順を診療するなど、徳川御三家からも信任を得た。文政12(1829)年、岸村検校が死去し当道座坊主の地位を継いだ。
 天保2(1831)12月1日徳川家斉,徳川家慶に御目見し、天保3(1832)9月14日奥医師並、大奥御用、20人扶持。天保4(1833)6月27日 帯刀を許される。
 天保10(1839)9月18日徳川家斉の類中風に罹ったため、16日間詰切で治療して効果を挙げ、12月18日法眼に叙せられた。天保12(1841年)2月22日本丸御医師、9月16日当道座を離れて寄合医師となり、葦原源道と名乗った。天保15(1845)年、坂幽玄より旧号を与えられ、玄道と改称した。
 安政4(1857)5月体調が悪化し、11月5日死去、29日成子村常円寺に葬られた。