清和源氏

G208:木曽義仲  源 経基 ― 源 頼信 ― 木曽義仲 ― 千村家重 G209:千村家重

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千村家重 千村政直
 父の木曽家村は北朝方として挙兵し、足利尊氏の傘下に入り、領地を与えられて讃岐守を称した。家村は5人の子に領地を分けて支配させ、5男・家重は上野国千村郷を支配し千村五郎家重と称して千村氏の祖となった。その後、戦国の世の政直までの系図は不確かではあるが、政直は宗家の木曽義昌とともに武田信玄に属した。

 千村政直は宗家木曽義昌とともに甲斐の武田信玄に属していたが、信玄の死後武田勝頼が長篠の戦いで大敗すると義昌と共に織田信長に属した。
 やがて家康が信濃に勢力を伸ばすと木曾義昌は家康に接近していった。天正18年の小田原征伐では徳川軍に加わり、小田原城が落城すると信濃諸大名は関東各地に封ぜられ、木曾義昌は下総国網戸(阿知戸)へ一万石で移封され千村氏も従った。
 慶長5年(1600年)、徳川家康は木曾義利を不行状の理由により改易し、その領地1万石を没収した。そのため木曾氏の一族,家臣達は所領を失ってしまった。

千村良重 千村仲雄

 天正18年(1590年)、主家の木曾義昌は、家康の関東移封に伴って下総国の網戸(阿知戸)に移封することとなり、同年、下総国三川村に到着、東園寺に居住し芦戸地域を整備し、天正19年(1591年)3月、芦戸城に入った。
 12月には、千村氏,山村氏,馬場氏ら木曾氏の重臣も移住し、芦戸城の西南には千村良重と馬場昌次の屋敷が、東南には山村良勝の屋敷が配置され、城の南には市場を開けるように町作りが計画された。
 天正18年(1590年)12月12日、良重は、下総国十日市・蛇園700石の知行と箕広66貫文の代官職を宛行われた。しかし、義昌の没後、木曾義利が叔父の上松義豊を惨殺するなどの不行状によって、慶長5年(1600年)に木曾氏が改易されると、千村氏らは浪人となり、下総の佐倉で暮らした。
 関ヶ原の戦いでは徳川家康に召し出されて東軍に属し、かつて同じく木曾氏の重臣であった山村良勝と共に中山道進軍の先導役となった。各地に離散中の元木曾氏の一族や家臣に味方になるように呼びかけ、8月12日に贄川の砦の中に居た千村次郎衛門重照,原図書助,三尾将監長次を内応させて砦を突破し、豊臣方に抑えられていた木曽谷全域を奪還して美濃国苗木城と岩村城を攻めて武功を挙げた(東濃の戦い)。
 これらの功績により、千村平右衛門良重は幕府の交代寄合となり、美濃国内の美濃国の恵那郡,土岐郡,可児郡における4,600石を知行地とし、信濃伊那郡の天領11ヶ村(上伊那の榑木買納め5ヶ村,下伊那の榑木割納め6ヶ村)を預地とした。また天竜川流域の信州・遠州船明山榑木奉行も務めた。美濃国可児郡久々利村の千村陣屋を本拠地として、名古屋では武平町筋北端と、江戸は芝(将監橋)に屋敷を与えられ、その他としては信濃伊那郡の天領預地を支配するために、現在の長野県飯田市にも陣屋を構えた。良重の弟・千村藤右衛門政利は300石、良重の従弟・千村助右衛門重次は700石、千村次郎衛門重照は600石を与えられて尾張藩に仕えて、久々利村に屋敷を与えられ久々利九人衆の一員となった。
大坂の冬の陣では妻籠の関所や信濃飯田城の守備を務め、夏の陣では天王寺口の戦いに参戦した。
 元和元年(1615年)、大坂の陣終結後に江戸城への帰途、名古屋城に立寄った家康は、千村平右衛門良重と山村甚兵衛良勝を召し出し、木曽を尾張藩に加封する旨を申し渡した。良重は、木曽と隔たった信濃伊那谷と遠江北部にも所管地を有するため、尾張藩の専属になることをなかなか承知しなかった。徳川義直は、同家が木曾衆を代表する家柄だけに、なんとしてでも尾張藩専属を果たそうとして兄の将軍徳川秀忠に対し、尾張藩に属するよう命じられたいと談判に及んだ。結局、元和5年(1619年)、徳川秀忠の命令で幕府直臣(表交代寄合並)として信州伊那郡の天領の預地の支配と、遠州船明山榑木奉行のままで尾張藩の附属となった。良重は信州遠州預所管理をどうするかと老中を通して将軍に伺いを立てた。これに対しては今後も支配するように、との上意が下された。そこで良重は、信濃管地は従来どおりとし、遠州奥の山を返上する代りに同国の船明村の榑木改役を務めたい、と願い許可された。尾張藩付属の千村平右衛門家だが、同時に幕府の役職をも兼ねたため、実質的には幕府と尾張藩の両属的な立場となった。
 寛永7年(1630年)、死去。享年65。子・重長が千村平右衛門家の家督を継いだ。

 本居大平に学び、『日本書紀』の景行天皇美濃行幸を考察し,泳宮が久々利の地であるとする「泳宮考」を著した。和歌にも通じていた。弘化3年11月26日死去。