G201:源 頼信 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 | G311:源 義国 |
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源 義国 | 足利義康 |
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源頼信-頼義-義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した。長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠とともに次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、乱暴狼藉を行ったことや時代の趨勢に合わないと義家に判断されて後継者から外されていった。 |
足利氏は義康が下野国足利庄によって、足利氏を称したのに始まる。これより先、藤原秀郷の流れが足利の地を開発して土着し、足利大夫と称していた。義国が足利成行の一族基綱の女を娶って生まれたのが義康であるといわれる。藤姓足利氏と源姓足利氏とは、やがて競合するようになり、源平合戦で平氏方についた藤姓足利氏は没落した。 |
矢田義清 | 足利義長 |
足利義康の庶長子として誕生。本拠の下野国足利荘は嫡子である異母弟・義兼が継ぎ、庶長子である義清は伯父であり岳父の新田義重の猶子となり、上野国八幡荘の矢田郷を獲得したという。 |
父から継承した下野国足利荘に拠った異母弟の義兼とは異なり、義長は同母兄の義清とともに京において活動、上西門院に仕えた。 |
足利義兼 | 桃井義助 |
幼い時に父・足利義康を亡くした義兼は、伯父・源(新田)義重の軍事的庇護を受けていたとされる。 |
足利義兼の次男として誕生。畠山義純の異母弟で義氏の庶兄。父同様に鎌倉幕府に仕える。承久3年に勃発した承久の乱において幕府方の将として出陣し、宇治川における幕府軍と朝廷軍の会戦の際、6月12日に戦死を遂げた。または6月15日とも伝わる。 |
源 季邦 | |
治承4年閏5月26日に以仁王の挙兵による宇治川の戦いに源頼政の武将として、平知盛率いる平家の軍勢と戦って、戦死したと記されている。齢30という。義成という子がいたと伝わる。 |