清和源氏

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足利義氏 足利泰氏

 3男ながら、正室の北条氏の所生であったため家督を継ぐ。そのため終生北条氏とは懇意であり、要職には就かなかったものの、和田合戦や承久の乱など重要な局面において北条義時・泰時父子をよく補佐し、晩年は幕府の長老としてその覇業達成に貢献した。自身の正室にも泰時の娘を迎えており、家督もその子である泰氏に譲っている。
 承久の乱の結果、東海道の三河国守護職を得て、日本の東西交流を牛耳る立場を獲得した。後に子孫の尊氏が京の六波羅探題を落としたときに関東から鎌倉幕府勢が海道を上洛するのを足利家が三河国で阻止できたのもこのためである。三河国では源頼政の孫・大河内顕綱などを家臣に入れ勢力を拡大し、庶長子の長氏を幡豆郡吉良荘に住ませて足利氏の分家吉良氏(後に今川氏が分家)を誕生させた。
 三河守護職,陸奥守,武蔵守などを歴任し、仁治3年(1241年)出家。建長元年(1249年)には正義山法楽寺を建立している。 

 嘉禎2年(1236年)丹後守、嘉禎3年(1237年)に宮内少輔になり、鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経に近仕した。宝治合戦の直前、宝治元年(1247年)3月2日に時頼の姉妹である泰氏の正室が死去。宮騒動,宝治合戦に続く執権・北条時頼による得宗専制体制強化の過程で、有力御家人の勢力が削がれていく中でも、父の義氏は幕府宿老として重んじられていたが、建長3年(1251年)12月、泰氏は36歳で無断出家してしまい、幕府の許可無く出家したことを咎められ、自身が拝領した下総埴生荘を没収されて足利の本領に閉居した。以降、政治の舞台に出ることはなくなったとされる。泰氏の出家の翌年3月には5代将軍・藤原頼嗣が京へ強制送還されていることから、何らかの関連性があったと考えられているが、無断出家をした原因は不明である。なお義氏は、泰氏出家後も地位や所領を保ち、頼氏には義氏の所領が相続されている。
 家内にあっては、はじめ名越流北条氏の北条朝時の娘を正室に迎え、斯波家氏,渋川義顕を儲けるが、後に得宗家の北条時氏の娘と婚姻することになり、これを正室として足利頼氏を儲けた。得宗家との婚姻により朝時の娘は側室に移され、後継者と目されていた家氏は廃嫡、尾張足利家として後の斯波氏の祖となり、足利宗家嫡男も正室の子である頼氏となった。このような経緯もあり、足利一門の中でも斯波氏と渋川氏格別の家格を誇ることとなる。6男の基氏は下野の足利荘のうち加古郷を分領され加古氏の祖となった。さらに後には桜井判官代俊光の娘との間に、一色公深を儲ける。公深は桜井判官代俊光より三河国幡豆郡吉良荘の地頭の身分を譲り受け、吉良荘一色郷に住み、足利家の四職のひとつの家となる一色氏の祖となる。  

足利頼氏 足利家時

 足利泰氏の3男として生まれるが、母が北条得宗家出身であることから嫡子に指名され、父・泰氏の跡を継いで足利氏の当主となり上総と三河の2ヶ国を領した。『吾妻鏡』における初見は建長4年(1252年)11月11日条の「足利大郎家氏 同三郎利氏」の箇所である。「三郎」が兄弟の順序を表す通称ではなく、足利氏嫡流の家督継承者が称する称号であり、母の出自の違い(家氏の母は名越朝時の娘)に伴って建長3年(1251年)から同4年(1252年)の間で「三郎」を称する足利氏の嫡子が家氏から利氏(頼氏)へ変化したことを表す。その時期は、『吾妻鏡』から建長3年8月15日~翌建長4年4月1日の間に絞り込められる。
 生来から病弱だったとされ、弘長元年(1261年)7月29日、頼氏を指すと思われる治部大輔が翌月15日の鶴岡八幡宮での行事(放生会)を病気で辞退したという記述を最後に史料から姿を消した。その後の頼氏は、没年にも異説が多く、弘長2年(1262年)説,弘安3年(1280年)説,永仁5年(1297年)説があるが、1262年死亡説が有力とされる。命日については4月24日、享年については生母との関係から判断して『尊卑分脈』掲載の23が正しいとされる。
 頼氏の死後、足利氏嫡流の家督は側室(家臣・上杉重房の娘)との間に生まれたとされる家時が跡を継いだとされる。それまで足利氏の歴代当主は、代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあったが、家時はその例外として跡を継ぐことができた。

 『難太平記』によれば、足利氏には源義家の「我七代の孫吾生かはりて、天下を取べし」と書かれた置文が伝わっており、家時が丁度7代目に当たっていた。未だもってその時ではないことを嘆いた家時は八幡大菩薩に祈って、「我命をつづめて、三代の中にて、天下を取らしめ給へ」 と語って腹を切ったと書かれている。 
足利貞氏 足利直義

 父・家時の死を受けて足利氏当主となる。貞氏は当時10歳前後の少年であったとされ、祖父・足利頼氏以来3代続けての幼少の当主となり、執事高氏(高師氏,高師重父子)の補佐をうけた。金沢顕時の娘を正室に迎えるなど、家時の自害のあとを受けても歴代の足利氏当主と同様に北条氏との関係を重視した。
 貞氏が生まれた頃、当時の執権・北条時宗は蒙古襲来への勝利を祈願すべく、将・惟康王を「源惟康」という「源氏将軍」として戴くことによって“治承・寿永の乱の勝利者・源頼朝”の再現を図ったという。この「源氏将軍」の復活という現象は、かつての源氏将軍を回顧する機会を与え、東国武士社会の中に潜在していた武家の正統イデオロギーとしての「源氏将軍観」をも高揚させたという。故に、頼朝と同じ清和源氏の系譜に連なり、その一門筆頭に位置づく足利氏の方が将軍に相応しいとの認識を周囲に呼び起こし、足利氏を将軍に擁立しようとする動きや足利氏に野心があるのではないかという猜疑心をもたらしたとされている。
 その後の霜月騒動(1285年)や平禅門の乱(1293年)も「源氏将軍」を擁立する動きであったとされ、その後も同様の反乱が起こる可能性があったが、貞時はこの対策として烏帽子子である貞氏に対して「源氏嫡流」として公認することを行ったという。このことは、他の源氏一門との格差が明示されることにも繋がるため、足利氏の側にとっても歓迎すべきことであったといい、合意形成に至ったという。但し、このことは足利氏が将軍になり得る可能性を北条氏が認めることとなるため、北条氏は公認を与えるに際しての条件として、足利氏が引き続き北条氏の擁立する将軍に伺候する立場を遵守することと、北条氏に対し服従する意志を見せることを足利氏に求めたという。従来、「父・家時よりうけついだ怨念を胸中に蔵しながら、表面は得宗の意をむかえることに汲々として奉仕につとめる、忍従の立場に貫かれた」と評されていたが、近年では逆に、積極的に得宗の意を迎えて奉仕することで「源氏嫡流」の公認を獲得し、得宗の擁立した親王将軍の近臣を担うことで得宗政権への協力姿勢を見せることで、北条氏から優遇されて政治的立場を安定させることに成功し、足利氏が得宗家に次ぐ家格を維持することができたと評価されている。

 

 足利氏の慣例に従い、二人の兄同様に初めは、得宗・北条高時より賜った偏諱と祖先にあたる源義国の一字により高国と名乗るが、後は河内源氏の通字である「義」を用いた忠義,直義に改名する。元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐島を脱出して鎌倉幕府打倒の兵を挙げると、兄の高氏とともにこれに味方し六波羅探題攻めに参加する。
 建武の新政では左馬頭に任じられ、鎌倉府将軍・成良親王を奉じて鎌倉にて執権となり、後の鎌倉府の基礎を築く。建武2年(1335年)、中先代の乱が起こり、高時の遺児・時行が信濃国に挙兵し関東へ向かうと、武蔵国町田村井出の沢の合戦にて反乱軍を迎撃するが敗れる。反乱軍が鎌倉へ迫ると、幽閉されていた護良親王を配下の淵辺義博に命じて混乱の中で殺害させ、足利氏の拠点となっていた三河国矢作へと逃れた。もっとも、成良親王は無事に京都に送り返されており、護良親王殺害も建武政権の立場に立った行動であった。
 同年、後醍醐天皇に無断で来援した尊氏と合流すると東海道を東へ攻勢に転じ、反乱軍から鎌倉を奪還する。奪還後も鎌倉に留まった尊氏は付き従った将士に独自に論功行賞などを行うが、これは直義の強い意向が反映されたとされている。しかし、建武政権から尊氏追討令が出、新田義貞を大将軍とする追討軍が派遣されるや、尊氏は赦免を求めて隠棲する。直義らは駿河国手越河原で義貞を迎撃するが敗北する(手越河原の戦い)。これに危機感を持った尊氏が出馬すると、これに合して箱根・竹ノ下の戦いで追討軍を破って京都へ進撃する。足利軍は入京したものの、延元元年/建武3年(1336年)に陸奥国から上洛した北畠顕家や楠木正成,新田義貞との京都市街戦に敗れる。再入京を目指すも、またしても摂津国豊島河原での戦いに敗れて九州へと西走する(豊島河原の戦い)。道中の備後国鞆の浦にて光厳上皇の院宣を得て、多々良浜の戦いで建武政権側の菊池武敏に苦戦を強いられながらもこれを撃破するなど、西国の武士の支持を集めて態勢を立て直して東上を開始。海路の尊氏軍と陸路の直義軍に分かれて進み、湊川の戦いで新田・楠木軍を破って再び入京する。
 尊氏は光明天皇を擁立し、明法家(法学者)の是円(中原章賢)・真恵兄弟らへの諮問のもと『建武式目』を制定して幕府を成立させるが、この式目の制定には直義の意向が強いとされる。延元3年/暦応元年(1338年)に尊氏は征夷大将軍に、直義は左兵衛督に任じられ、政務担当者として尊氏と二頭政治を行い「両将軍」と併称された。
 興国2年/暦応4年(1341年)3月24日には、出雲・隠岐両国守護の有力武将・塩冶高貞を謀反人と責め、桃井直常,山名時氏を主将とする追討軍を派兵して数日のうちに自害に追い込んだ。
 しかし、正平3年/貞和4年(1348年)頃から足利家の執事を務める高師直と対立するようになり、幕府を直義派と反直義派に二分する観応の擾乱に発展し、さらに吉野へ逃れていた南朝も混乱に乗じて勢力を強める。直義派からの讒言を受けて尊氏が師直の執事職を解任すると、正平4年/貞和5年(1349年)に師直とその兄弟の師泰は直義を襲撃し、直義が逃げ込んだ尊氏邸をも大軍で包囲した。高兄弟は直義の罷免を求め、直義が出家して政務から退く事を条件に和睦する。直義は出家し、三条坊門殿の邸宅を鎌倉から上洛してきた足利義詮に譲って恵源と号した。
 翌正平5年/観応元年(1350年)、尊氏・師直らが直義の養子・直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に乗じて京都を脱出、師直討伐を掲げて南朝へ降る。しかし直義は、南朝に降ったのちも発給文書には北朝で用いられた観応の年号を使用しており、降伏は便宜的なものであったと解釈されている。
 一方、京都の北朝は直義追討令を出すに至る。南朝に属した直義は尊氏勢を圧倒し、正平6年/観応2年(1351年)に播磨国光明寺城(光明寺合戦)や摂津国打出浜で尊氏方を破る(打出浜の戦い)。尊氏方の高師直・師泰兄弟とその一族は2月26日、直義派の上杉能憲に殺害された。
 師直兄弟を闇討ちで排除した後は、尊氏の嫡子義詮の補佐として政務に復帰したが、尊氏・義詮父子との仲は良くならず、ついに尊氏父子は出陣と称して京都から出ていき、それぞれ近江と播磨で反直義勢の態勢を整え始めた。それを見た直義は8月1日に京都を脱して北陸・信濃を経、鎌倉を拠点に反尊氏勢力を糾合した。これに対して尊氏父子は南朝に降り、正平一統が成立して新たに南朝から直義追討令を出してもらう。
 しかし、駿河国薩埵山,相模国早川尻などの戦いで尊氏に連破され、正平7年(1352年)1月5日、鎌倉にて武装解除される。浄妙寺境内の延福寺に幽閉された直義は、同年2月26日に急死した。『太平記』巻第三十では毒殺の噂が流れたことを記述している。
 観応の擾乱は直義の死により終わりを告げた。ただし、直義派の武士による抵抗は、その後も直冬を盟主として1364年頃まで続くことになった。
 なお、尊氏はその死の直前の正平13年/延文3年(1358年)に、直義を従二位に叙するよう後光厳天皇に願い出ている。その後、年月日は不詳であるが更に正二位を追贈された。正平17年/康安2年(1362年)7月22日には「大倉宮」の神号が贈られ、「大倉二位明神」として直義の邸宅であった三条坊門殿の跡地に三条坊門八幡を創建して祀った他、直義が失脚後に滞在していた綾小路邸にも祀った。さらに天龍寺の付近に直義を祀る仁祠(寺)が建てられている。

足利直冬 足利冬氏

 幼少時は実父である尊氏に認知されず、相模鎌倉の東勝寺において喝食となるが、僧侶として修行に専念していたとは考えられず、問題児であったとされている。興国6年/貞和元年(1345年)頃に還俗し、東勝寺の僧侶である円林に伴われて上洛し、当時、朝廷や武家の間に出入りして学問の講義をしていた独清軒玄慧法印の所で勉強したが、独清軒玄慧法印は直冬を見所があると思い、尊氏の弟である直義に相談した。直義の養子となり直冬と名乗る。
 直義は正平3年/貞和4年(1348年)に紀伊など各地で強大化した南朝勢力の討伐に直冬の起用を進言し、直冬は従四位下左兵衛佐に叙任されて討伐軍の大将として初陣を飾った。直冬は南朝の軍勢を破り、大きな戦功を立てたが、尊氏は直冬が戦功を立てたことを内心で苦々しく思ったと『太平記』にはあるこの時の一件が尊氏や義詮に対する憎悪へと変貌していく一因となる。
 直義は尊氏や重臣らの動きを見て、直冬をしばらく京都から離れさせたほうがよいと考え、正平4年/貞和5年(1349年)4月7日に直冬を長門探題に任命し、京都を出発された。新たに設置された職のため、また尊氏の息子であるため仁科盛宗ら多くの評定衆,奉行が随行した。
 この頃、室町幕府では将軍・尊氏とともに二元政治を行っていた直義と、各地で軍事的功績のあった執事の高師直らとの対立が生じ、やがて内紛に発展して観応の擾乱に至る。8月に師直のクーデタで直義が失脚し、直冬は上洛しようとするが、播磨の赤松則村(円心)に阻止された。直冬は備後国の鞆津に留まったが、この地に留まることは明らかな命令違反で、直冬はさらに中国地方において軍勢を催促するなどの態度を取ったため、尊氏は直冬討伐令を下した。9月13日に直冬は鞆津で師直の命令を受けた杉原又三郎ら200余騎に襲撃され、磯部左近将監や河尻幸俊らの助けを受けて海上から九州へ逃れた。
 直冬の九州落ちを知った幕府は直冬に出家と上洛を命じるが、直冬がこれに従わないと見るや再び討伐令を下した。当時、九州には征西将軍宮・懐良親王を擁する南朝方の菊池氏や足利方の九州探題で博多を本拠とした一色範氏(道猷),大宰府の少弐頼尚らの勢力が鼎立していたが、直冬は、尊氏より直冬の討伐命令を受けた一色氏らと戦い、懐良親王の征西府と協調路線を取り大宰府攻略を目指した。
 当初、少弐頼尚は一色氏と協調して直冬と戦っていたが、直冬の勢力が拡大すると一色氏への対抗心から正平5年/観応元年(1350年)9月に直冬を自陣営に迎える。一説によれば婿にしたと言われる。勢力を拡大した直冬らは一色氏を博多から駆逐した。尊氏は直冬一党の勢力が九州全土に拡大しつつあったのを見て、直冬討伐令を出し続けたが効果は現れず、尊氏は直冬と少弐氏との同調を受けて、幕府では尊氏自ら九州に出兵しようとする。尊氏は中国地方の有力国人に動員令を出し、これを察知した直冬も尊氏の九州下向を阻止するために同じく中国・四国に動員令を出している。6月21日、尊氏は先鋒として高師泰を派遣したが、直冬方の桃井義郷が石見に下向して尊氏軍の進軍を妨害した。師泰率いる尊氏軍は石見三角城の合戦で敗れて出雲に没落した。しかもその最中に直義が京を脱出し、大和に逃れた。大和に逃げた直義は自らの支持勢力を集め、南朝に帰順して挙兵した。この時、尊氏は兵庫から備前三石,同福岡に滞在していたが、直義の挙兵と勢力拡大で九州下向を中止し、備前福岡から京都へ帰還しようとしたが、その間に京都の留守を任されていた義詮が直義に追い払われてしまう。尊氏は師直や義詮と共に京都奪回を図るが、直義軍との戦いで連敗して丹波・播磨へと落ち延びた。正平6年/観応2年(1351年)2月、尊氏は直義と和議を結ぶが、高師直・師泰兄弟は直義方に殺害された。こうして直義が政界に復帰し、直冬は直義の求めに応じた尊氏から3月に九州探題に任命されている。この任命により一時的とはいえ直冬の立場が完全に抜きんでる形となった。
 しかし、尊氏と直義の間で再び不和が生じ、同年に尊氏が南朝と一時的に講和する正平一統が成立し、尊氏は南朝の後村上天皇から直義討伐令を得た。直冬に対しても再び討伐令が下り、一色氏が征西府と協調して勢力を巻き返した。正平7年/文和元年(1352年)、鎌倉で直義は尊氏に降伏し2月26日に急死する。正平一統は破綻するが、九州において直冬は孤立した。
 直冬は以前より一貫して石見への工作を行っており、九州での直冬勢失墜後においても、石見では直冬党が一定の勢威を保っていた。こうした事情の下、直冬は中国地方へ逃れ、長門国豊田城に拠る。直冬は時期不明だが南朝に帰服し、旧直義派や反尊氏勢力で南朝にも接近していた斯波高経,桃井直常,山名時氏,大内弘世らに後援され、正平9年/文和3年(1354年)5月にこれら反尊氏派の軍勢を率いて上洛を開始した。
 翌正平10年/文和4年(1355年)に南朝の楠木正儀らと協力して京都から尊氏を追い、一時的に奪還した。その後1ヶ月あまりの間、山名氏の軍勢と共に義詮・赤松・京極の軍勢と激戦を展開するが、ここで直冬方は徹底的に打ち破られ主力の一角である山名勢が崩壊した。次いで直冬は、東寺により衆徒と協調を保ち山門に拠った尊氏と洛中で戦うも、ここでも破れ、尊氏勢による本陣への突撃を受けたことで、京都の確保はならず3月13日に岩清水八幡宮へと敗走した。
 正平13年/延文3年(1358年)には尊氏が死去するが、南朝勢力も幕府の度重なる攻勢の前に衰微し、正平18年/貞治2年(1363年)には大内弘世,山名時氏らも幕府に降り、直冬党は瓦解する。正平21年/貞治6年(1366年)の書状を最後に直冬の消息は不明となる。
 一説には、義詮の死後、跡を継いだ第3代将軍・足利義満と和解し、石見に隠棲することを義満から認められたとされる。直冬の身柄は吉川氏が保護していたとされている。直冬は尊氏や義詮より長生きし、義満時代の中盤まで存命したが、その間に彼について記した文書は存在せず、どのような晩年を送っていたのかも不明である。
 直冬の没年は応永7年3月11日(1400年4月5日)の説が最も有力とされる。直冬には5人前後の息子がいたとされ、嫡男は冬氏とされている。それ以外の息子は僧籍にあったとされ、末子の宝山乾珍は絶海中津の弟子となり、相国寺鹿苑院塔主となっているが、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱後に死去している。僧籍に入った息子の内の一人は、直冬開基と伝わる勝願寺の寺主となっており、著名な人物に江戸時代後期から明治時代に活躍した足利義山らがいる。 

 中国武衛,善福寺殿と称される。かつて、直冬が勢力を扶植した備中井原荘の辺りに住み、その地に臨済宗善福寺を開基したため、善福寺殿と呼ばれるようになったと思われる。母は法名を広福寺殿玉峯明金尼長老というが本名,出自などは不明。
 子に嘉吉の乱で赤松満祐に大将として擁立された足利義尊、その弟で備中から播磨に入国を試みて失敗し殺された足利義将がいる。冬氏の兄弟は全て僧籍にあり、中でも直冬の末子で冬氏の末弟と伝わる宝山乾珍が有名である。
 冬氏の生没年は不明だが、義尊は応永20年(1413年)の生まれで、さらに弟に義将がいるため、応永年間中期までは生存していたと推測される。

足利義尊

 足利尊氏の庶子で南北朝時代に中国地方で反幕活動を繰り広げた足利直冬の孫と言われ、直冬の嫡男・足利冬氏の長男であるとも考えられている。「尊」は尊氏の一字と思われる。嘉吉元年(1441年)に第6代将軍・足利義教を謀殺し、領国の播磨で挙兵した赤松満祐に大将として擁立される。『東寺執行日記』からは応永20年(1413年)生まれとされる。
 嘉吉の乱で将軍を謀殺した満祐は、幕府の追討軍を迎え撃つために下国し、還俗した義尊を推戴して坂本城へ篭城した。『赤松盛衰記』によれば、赤松家の家臣達は義尊の擁立にあまり乗り気ではなかったという。また、義尊の兄弟である禅僧(義将)も備中から播磨へ向かったが、備中守護の細川氏久によって討ち取られている。
 義尊は坂本城から東坂本の定額寺に移り、そこで連日酒宴・猿楽・連歌などをして遊んでいたという。但し、自分の花押を据えた軍勢催促状は諸方に出している。満祐にすれば義尊はあくまで旗頭に過ぎず、味方を増やすために必要であり、義尊が武将として陣頭に立つことなど最初から期待していなかったとされている。
 嘉吉元年(1441年)9月10日、山名宗全率いる幕府軍に攻められて赤松満祐が城山城で自害した。『建内記』嘉吉元年九月二十五日条によれば、満祐の嫡男・教康、弟の則繁らに付き添われて城中から脱出し、船で逃亡したという。逃亡先に関しては伊勢か日向という噂が飛び交ったが、結局わからなかった。遺体は見つからず、合戦の際に船が転覆して溺死したという噂もあった。
 その後の義尊は諸方を転々とし、再び僧侶の身に戻ったとされる。嘉吉2年(1442年)3月、僧の姿で京都に現れ、管領の畠山持国に保護を求めたが、持国は家臣に命じて義尊を討ち取らせた。享年30。