G331:足利義氏 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 吉良長氏 | G357:吉良長氏 |
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吉良長氏 | 吉良満氏 |
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母が側室であったため、長男でありながら足利家の家督を継ぐことができなかったという。この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる。 |
吉良長氏の嫡男として誕生。『吾妻鏡』には建長4年(1252年)4月1日、新将軍宗尊親王の鎌倉入りの随兵として登場するのが最初で、正嘉元年(1257年)から廂番、正元2年(1260年)には昼番衆として表れる。弘長3年(1263年)8月の記事を最後に『吾妻鏡』から名前が見えなくなるが、吉良荘へ帰ったらしい。文永8年(1271年)、吉良氏の菩提寺として実相寺を創建、東福寺の円爾を招いて開山式を行っている。 |
吉良貞義 |
吉良満義 |
鎌倉幕府の御家人として9代執権・北条貞時から偏諱を受けて貞義と名乗ったようである。弘安4年(1281年)の弘安の役の際、大将として石見国に下向したと伝わる。その頃の石見地頭は「三河吉良右衛門」で、その末裔が羽隅氏を名乗り石見に土着したという。 |
元弘の乱で倒幕の兵を挙げた足利尊氏に従い、京都の六波羅探題攻撃に参加。倒幕後に建武の新政が開始されると、足利直義に従い関東に下向し、建武元年(1334年)正月には関東廂番六番頭人に任命された。 |
吉良満貞 |
吉良義尚 |
父と共に足利尊氏の挙兵に従った。やがて観応の擾乱が始まると満義・満貞父子は足利直義方として戦い、直義の死後も直冬や南朝方と結んで尊氏に敵対し、一時は京を制圧するほどの勢いをみせた。しかし、情勢は必ずしも吉良氏が属した陣営に好転せず、やがて満義、満貞の順で幕府へ帰順することとなった。 |
元服時に室町幕府4代将軍足利義持から「義」の一字を授かり義尚と名乗ったと云われる。足利一門の中でも家格が高く、父俊氏が禁裏警護の長官(武者頭)をしていたため、無位無官の時、既に昇殿を許されていたという。父の跡を継ぎ、武者頭に任ぜられる。 |
吉良義真 |
吉良義信 |
長兄の義尚に息子がなく、義尚の婿である斯波義健も早世したため、享徳年間(1452~55年)に長兄から家督を譲られる。 |
応仁の乱が起こると、父吉良義真は三河国の本領を攻撃し始めた東条吉良氏の吉良義藤の後を追って、応仁元年(1467年)5月18日に京都を発ち三河へ向かった。その際、子の義信は同行させず、将軍足利義政に近侍させた。 |
吉良義堯 |
吉良義昭 |
父義元が家督を継ぐことなく永正13年(1516年)以前に没したため、同年10月4日、祖父吉良義信から家督を譲られる。 |
西条吉良氏は、はじめ長兄の義郷が継いでいたが、義郷が死去すると次兄の義安が継ぐこととなった。ところが、東条吉良氏の吉良持広も死去したため、義安はこちらの家督を継ぎ、西条吉良氏の家督はこの義昭が相続することになった。 |
一色有義 |
吉良尊義 |
吉良氏の一族で、三河国幡豆郡吉良荘内一色郷を領したことから「一色殿」と呼ばれた。有義以前、一色の地は足利泰氏の子である一色公深及びその子頼行が本貫の地としていたが、早い段階で関東へ移り住み、吉良氏が領することになった。赤羽根城に居住したと伝わる。 |
奥州(武蔵)吉良氏(前期東条吉良氏)の吉良貞家・満家父子が陸奥国に去った後、東条の地は惣領家である西条吉良氏領となり、吉良満義が東条城を接収した。その後、尊義が生まれるが、間もなく観応の擾乱が勃発し、父・満義と長兄・満貞は足利直義派として各地を転戦、直義の死後はその養子・直冬や南朝と結んで尊氏に敵対した。 |
荒川義広 | |
東条城主・吉良持清の次男として誕生した。後期東条吉良(下吉良)氏の家督は兄・持広が継いだため、義広は別家荒川家を興した。永禄4年(1561年)、徳川家康による東条城主・吉良義昭攻めに協力し、その軍功により市場姫を娶ることになったとされるが、永禄6年の三河一向一揆の際は、吉良義昭と共に一向衆に与して徳川軍と戦った。一揆軍は敗北したため、吉良義昭は近江国へ、義広は河内国へ亡命を余儀なくされた。その後の消息については、河内国において病死したされる。また一説に八面城を放棄した後、吉良荘寄近村に蟄居し、永禄9年(1566年)9月22日に死去したとの「三州本願寺宗一揆兵乱記」の記事があるという。 |