清和源氏

G357:吉良長氏  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 吉良長氏 ― 吉良義安 G358:吉良義安

 

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吉良義安 吉良義弥

 天文5年(1536年)、西条城主吉良義堯の次男として生まれる。はじめ西条吉良氏の家督は兄の吉良義郷が継ぎ、次男の義安は東条城主(東条吉良氏)吉良持広の養子に入った。しかし兄義郷がまもなく死去したため、西条吉良氏に戻って兄の跡を継いだ。ところが、東条の吉良持広も死去したため、西条吉良氏は弟の吉良義昭に継がせ、自らは東条吉良氏の家督を相続した。
 天文18年(1549年)、駿河の戦国大名である今川義元が尾張の織田信広を攻めた際、義安は織田家に協力したため今川軍に捕らえられ、人質として駿府へ送られた。この際、今川義元は西条吉良氏の義昭に東条吉良氏も継がせ、吉良氏を統一させて今川家配下に組み込んでいる。なお、この際に義安の祖父と推定される後藤平太夫が反今川の首謀者として処刑されたと伝えられる。
 義安は、以降10年余りを駿府で人質として暮らすことになったが、このときに同じく今川氏の人質となっていた松平竹千代と親しくなり、弘治元年(1555年)に家康が元服した際には理髪役も務めた。永禄3年(1560年)6月の桶狭間の戦いで今川義元が戦死したため、この際に家康とともに人質から解放されて三河に戻った。
 一方、弟の吉良義昭は今川氏の後援を失って孤立し、徳川家康への屈従を余儀なくされていた。永禄5年(1562年)、義昭は再起を図って三河の一向宗門徒と結び、徳川氏と戦ったが、敗れて三河から逃亡する。このあと、家康から義安が東条西条の吉良氏を統一して領有することが認められた。
 義安のもとに統一された三河吉良氏は徳川家に仕え、吉良義央の代に赤穂事件で改易にされるまで続く。

 父の義定は徳川家康の従兄弟で家臣である。慶長2年(1597年)、12歳のときに徳川秀忠に御目見する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、秀忠が少年時に身に着けた具足を下賜され、これを着用して供奉している。合戦後に三河国吉良など3000石を安堵される。 一説には、慶長13年(1608年)12月24日、吉良義弥と大沢基宿は高家職に就任したという。
 元和9年(1623年)、明正天皇の誕生に際し幕府の使者として上洛する。以後も徳川秀忠の娘和子の立后に際しての使者を命じられるなど、幕府と朝廷の間の交渉・連絡に密接に携わった。
寛永20年(1643年)10月24日、京都において死去した。享年58。江戸市谷の万昌院に葬られ、以後この寺が吉良家菩提寺となる。
 吉良家の高家職就任については、家系的に清和源氏に属し、足利氏の一門であることの他に、歴代の当主は松平信忠や松平清康の娘を正室に迎えており、徳川家康とも親戚関係にあったことが理由として推測される。家康の征夷大将軍就任にあたっては、吉良家の系図を譲渡している。

吉良義央 吉良義周

 赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通,鳥居正次,清水義久らと共に討たれた。

 

詳細はWikipedia(吉良義央)参照

 元禄9年11月21日(1696年12月5日)、5代将軍・徳川綱吉に初御目見する。元禄14年3月14日(1701年4月21日)、義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日(1702年1月9日)、義央は事件の影響で隠居した。これに伴い、義周が相続して表高家に列した。赤穂浪士らによる討ち入りのあった元禄15年12月14日(1703年1月30日)の際、義周は18歳であった。義周も自ら武器をとって応戦し、不破正種(一説に武林隆重)に面と背中を斬られてそのまま気絶したものの、捨て置かれて斬首されることはなかった。
 事件後、すぐに家臣の糟谷平馬を使者にし、赤穂浪士による討ち入りの旨を老中・稲葉正通邸に届け出ている。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府評定所に呼び出された義周は、当日の対応に際する「仕方不届」を理由に改易の上、信濃国諏訪藩4代藩主・諏訪忠虎へのお預けを言い渡され、吉良家は義周を最後に断絶した。なお、同日には赤穂浪士たちに切腹の沙汰が下り、浪士全員が切腹している。
 元禄16年2月11日(1703年3月27日)、諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は左右田孫兵衛,山吉盛侍の2名のみ、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだった。高島城の南丸に幽閉されたが、高家の子息ということで藩士たちは「左兵衛様」と敬称した。たばこも許され、衣服や蚊帳も与えられた。ただし、自殺を防ぐ目的から帯刀を許されず、剃刀さえ与えられなかった。義周の前へ出る藩士も帯刀を禁止された。諏訪家では、義周の処遇についてたびたび幕府に書簡を送って細々と指示を仰いでいる。義周ら一行の到着後にたびたび病気になっているが、これは一帯に蚊が多かったことが原因のようである。
 義周は「武芸等不得手」と文献に特筆されているように、生来虚弱な体質で病で寝込むことが多く、宝永2年(1705年)10月からは完全に寝たきりとなった。さらに、宝永元年6月2日(1704年7月3日)には実父・綱憲が、8月8日(9月6日)には養母(祖母)・梅嶺院も死去と、身内の死が重なった。宝永3年1月19日(1706年3月3日)に危篤に陥り、20日(4日)、死去。享年21。遺体は塩漬けにされて防腐処理が施されたが、遺体の腐敗が予想以上に早く進んでしまい、香を大量に焚いて腐臭をごまかしたという。同年2月4日(3月18日)、幕府の石谷清職の検死を受けた後、地元の法華寺に葬られた。なお、遺臣の孫兵衛,盛侍の両名は、義周の石塔を自然石で立てて欲しいと代金3両を法華寺に納めている。