G357:吉良長氏 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 吉良長氏 ― 吉良義安 | G358:吉良義安 | ● |
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吉良義安 | 吉良義弥 |
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天文5年(1536年)、西条城主吉良義堯の次男として生まれる。はじめ西条吉良氏の家督は兄の吉良義郷が継ぎ、次男の義安は東条城主(東条吉良氏)吉良持広の養子に入った。しかし兄義郷がまもなく死去したため、西条吉良氏に戻って兄の跡を継いだ。ところが、東条の吉良持広も死去したため、西条吉良氏は弟の吉良義昭に継がせ、自らは東条吉良氏の家督を相続した。 |
父の義定は徳川家康の従兄弟で家臣である。慶長2年(1597年)、12歳のときに徳川秀忠に御目見する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、秀忠が少年時に身に着けた具足を下賜され、これを着用して供奉している。合戦後に三河国吉良など3000石を安堵される。 一説には、慶長13年(1608年)12月24日、吉良義弥と大沢基宿は高家職に就任したという。 |
吉良義央 | 吉良義周 |
赤穂事件で浅野長矩により刃傷を受け、隠居後は赤穂浪士により邸内にいた小林央通,鳥居正次,清水義久らと共に討たれた。
詳細はWikipedia(吉良義央)参照 |
元禄9年11月21日(1696年12月5日)、5代将軍・徳川綱吉に初御目見する。元禄14年3月14日(1701年4月21日)、義央が浅野長矩から殿中刃傷を受け、12月12日(1702年1月9日)、義央は事件の影響で隠居した。これに伴い、義周が相続して表高家に列した。赤穂浪士らによる討ち入りのあった元禄15年12月14日(1703年1月30日)の際、義周は18歳であった。義周も自ら武器をとって応戦し、不破正種(一説に武林隆重)に面と背中を斬られてそのまま気絶したものの、捨て置かれて斬首されることはなかった。 |