清和源氏

G331:足利義氏  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 足利義氏 ― 吉良義継 G356:吉良義継

リンク
吉良義継 吉良貞家

 足利義氏の3男または4男。名乗りからみると4男である説がある。一方、室町時代後期に編纂されたとされる『見聞諸家紋』という書物には「義氏之次男義継号東条、三男長氏号西条」とあり、また吉良氏が惣領の庶兄であることから御一家に加えられた経緯からして泰氏,長氏の兄であるとする説がある。また、「長瀬」を名乗っていたことから、初めは碧海郡長瀬(現岡崎市森越町)に住んでおり、吉良東条に移ったのは後年のことと推測されている。
 『尊卑分脈』には「渡唐」したと記されているが、大陸渡航に至る経緯は不明。帰国後、出家したとされるが、岡崎市滝山寺に伝わる『滝山寺縁起』には、建長7年(1255年)、滝山寺で足利義氏の一周忌法要が営まれた際、法華堂が新たに建てられ、その本尊である阿弥陀仏を高野山より迎えたのが、出家し尊観と名乗っていた義継であることが記されている。

 幡豆郡東条城に居城したと考えられるが、史料が乏しく不明である。
 元弘の乱では他の吉良一族と共に足利宗家に従ったと考えられ、建武の新政期に足利尊氏の弟・直義に従い関東に下向、建武元年正月(1334年2月)に関東廂番六番衆の第三番の頭人に任ぜられ、成良親王警護の任を負った。
 南北朝の内乱が始まると、建武2年(1335年)12月の箱根・竹ノ下の戦いに参加した後、足利尊氏の本軍とは分かれ、建武3年(1336年)正月から2月にかけて尾張国三河を転戦、2月に三河矢作で軍を再編して関東へ向かった。関東では鎌倉や下野国で南朝軍と戦い、南朝軍に追われ九州に出奔していた尊氏が反攻で京を奪回すると、8月ごろ上洛して本軍に合流、因幡国,但馬国両国の守護職に任じられまた、幕府評定衆,五番制引付方の二番頭人をも歴任した。
 興国6年/康永4年/貞和元年(1345年)、畠山国氏と共に奥州管領に補任され、奥州国府に下向,着任、奥州を拠点に反北朝活動を展開する北畠氏など南朝軍と戦う。
 観応の擾乱には直義方として畠山氏と対立、正平6年/観応2年2月(1351年3月)畠山高国・国氏父子を陸奥大仏城に攻めて自刃させた。3月、高師直、高師泰の軍勢が陸奥岩切城に援軍を出すという報を得て、結城朝胤に白河関を守らせた。
 7月から11月にかけて、陸奥行方郡、山村城、高野郡などに沙汰を出す。11月、宇津峰宮(守永親王)と名取郡広瀬川で戦うも敗北、伊具郡の伊具館に退却する。翌正平7年/文和元年3月(1352年)貞家の軍は陸奥府中城に依る南朝軍を攻めて陥落させた。その後、陸奥の南朝勢力を宇津峰城に追い詰め、正平8年/文和2年(1353年)5月に陥落させた。
 その後の動向は正平9年(1354年)以降には貞家の現れる史料が存在しなくなるため、この頃に死没したと推定されている。

吉良満家 吉良持家

 初代奥州管領・吉良貞家の嫡男として誕生した。惣領貞家が没すると満家が家督と奥州管領職を継いだが、継承の混乱に乗じて、吉良氏に滅ぼされた畠山国氏の遺児・国詮や家運挽回を図る前奥州総大将・石塔義房の子である義憲が行動を起こす。このうち石塔義憲が勢力糾合に成功し、正平9年/文和3年(1354年)6月20日に多賀城を攻撃、2日間の合戦に敗れた満家は、一旦伊達郡の伊達氏の館へ逃れ味方を募っている。7月半ばには多賀城の奪還が成功し、満家は勲功のあった者に褒賞を与えている。
 石塔義憲を多賀城より駆逐し一先ず状況は安定したが、同じ頃、中央から斯波家兼が新たに奥州管領に任じられ下向したため、奥州管領職は再び併立制となった。満家は発給文書により正平11年(1356年)10月まで動向が確認できるが、その後は不明であり早逝したと考えられている。
 満家没後、子・持家が幼少だったためか、弟・治家と叔父・貞経の間で対立が起こり、内紛を見た国人は吉良氏を見限ったため奥州吉良氏は没落し、一方逐電した治家は上野国碓氷郡飽間郷を与えられ鎌倉公方に仕えた。

 満家死亡時にはまだ幼かったと思われ、吉良氏内部の主導権を巡り、持家の叔父・治家と大叔父・貞経の間で対立が起こった。両者はそれぞれ鎌倉府、室町幕府の支援を取り付け、相手より優位に立とうとしたと考えられている。
 正平22年/貞治6年(1367年)、2代将軍・足利義詮は結城顕朝宛て御教書を発給し、石橋棟義に協力し、奥州の両管領と共に吉良治家を挟撃するよう命じている。当時、治家は幕府から既に謀反人と認定されており、常陸国の小田氏の家臣と連携して多賀城に迫る勢いを見せていたらしい。当初、幕府は治家には奥州両管領を、小田氏家臣には石橋棟義をそれぞれ鎮圧にあてていたが、小田氏家臣らが国境を越え陸奥高野郡に侵入、治家に呼応する動きを見せたため、治家退治に全力を注ぐよう方針を転換、常陸の石橋棟義に奥州侵攻を命じ結城氏にも軍に加わるよう命じたのである。義詮の御教書にある「両管領」のうち一人は斯波直持であるが、もう一人は吉良氏のうち持家・貞経のいずれを指すのか明確ではない。奥州における吉良氏の動きはこれを最後に全く不明となる。

吉良貞経 吉良頼康

 奥州管領の吉良貞家を助け陸奥国における吉良氏の覇権確立に尽力した。
 建武2年(1335年)12月の箱根・竹ノ下の戦いの後、兄・貞家は西上する足利尊氏の本軍とは別行動をとり、建武3年(1336年)正月から2月にかけて、尾張国・三河の南朝軍との合戦に従事した。その後、2月に三河矢作で軍の再編を行った後、関東へ向かったが、貞経は兄と行動をともにせず、吉良荘に残り三河の留守部隊の大将を務めることになったらしい。貞家の東国下向の2ヶ月後、4月8日に新田左馬助率いる遠江国の南朝軍が三河に侵攻、同月20日に吉良荘で激戦が繰り広げられた。足利勢は大将「宮内少輔四郎」の下、配下の仁木義高や細川頼種が奮戦して、新田勢を退けた。更に6月8-9日には宝飯郡八幡、6月28日には宝飯郡本野原(いずれも愛知県豊川市)で追撃戦を行い、新田勢を三河から追い出すことに成功したばかりか、更に進んで天竜川畔まで追撃している。このときの大将「宮内少輔四郎」を官途名や仁木氏・細川氏に下知できる身分などから考えて貞経である可能性が高いとされている。
 観応の擾乱では、西条吉良氏の吉良満義,満貞、東条吉良氏の貞家がいずれも足利直義を支持したのに対して、貞経だけは尊氏,高師直を支持した。西条吉良氏が直義没後もしばらくの間、あくまでも幕府に抵抗を示したのに対して、東条吉良氏では初めこそ貞家が尊氏派の畠山氏を打ち滅ぼすなどの行動に出たが、すぐに尊氏派へと寝返っている。
 正平7年/文和元年(1352年)3月、東条吉良氏は陸奥に一族を集結し、貞家やその嫡子・満家、貞経らによる総攻撃を開始、多賀城の奪還に成功する。兄貞家が没すると、吉良氏の敵対勢力が次々に頭をもちあげてくることとなる。石塔義憲が多賀城の満家を攻撃しこれを占拠、足利直冬から奥州管領に任命される。事態を重く見た尊氏が任命した新管領・斯波家兼が入部し吉良氏と連合して石塔氏を多賀城から排除した。このころ畠山氏の遺児二本松国詮が活動を開始し、吉良・斯波連合軍は二本松氏の排除にも成功する。吉良氏・斯波氏による奥州統治はしばらく安定して機能するが、 正平11年/ 文和5年(1356年)の満家没後、吉良氏内部で室町幕府を後ろ盾とする貞経と鎌倉府を後ろ盾とする満家の弟治家の対立が始まり、正平22年/貞治6年(1367年)治家は幕府に叛旗を翻し討伐され、貞経,持家の活動もこの年を最後に途絶え、以後消息不明となる。
 討伐を受けた治家は明徳元年(1390年)、鎌倉公方足利基氏から招かれ上野国碓氷郡飽間郷を与えられ、関東に根を下ろした。

 武蔵国・世田谷城や同国久良岐郡・蒔田城に居を構えたことから、「世田谷御所」「蒔田御前」などと呼ばれた。
 大永4年(1524年)正月に相模国の北条氏綱が上杉朝興の江戸城を攻略すると、後北条氏に従った。天文2年(1533年)には氏綱による鶴岡八幡宮造営に参加し、材木を蒔田から海路で杉田へ送り、そこから延べ5万人の人足で八幡宮まで運んだ記録が残っている。また、氏綱の娘を正室に迎えており、『快元僧都記』に天文8年6月7日(1539年6月23日)に安産祈願を行った記録が残っていることから、この頃には既に婚姻をしていたと思われる。
 天文15年(1541年)11月に従四位下左衛門佐に叙位・任官された。天文17年(1548年)に北条氏康より一字拝領し、頼康に改名している。実子はいたようだが、永禄3年(1560年)12月に堀越氏から氏朝を養子に迎え、翌年2月には家督を継がせている。
 永禄4年12月5日(1562年1月10日)に死去し、蒔田の勝国寺に葬られた。
 頼康は北条氏に従ってはいたものの、足利将軍家の御一家であり家格が高かったため、家臣ではなく食客として扱われた。北条氏からは諸役を免除され、吉良家独自の印判を用いることが認められていたこと、また氏康からの一字拝領も偏諱ではなく、下の一字が与えられていることからも、特別な待遇を与えられていたことがわかる。
 ただし、北条氏の家格向上、勢力拡大に伴い、次第に状況が変わってくる。弘治年間頃より、北条氏康が直接吉良家の家臣に命令を下す事例が見られるようになり、次第に吉良家家臣団の解体が進む。さらに頼康の跡を次いだ氏朝の代には吉良家自体も北条家の家臣として取り込まれ、軍役などに応じるようになっていった。

蒔田頼久 吉良義俊
 吉良頼久の代に徳川家康から「吉良姓を継承するのは本家だけにせよ」と命じられ、現在の神奈川県にあった所領から「蒔田」と改姓した。以降、蒔田家は義祗、義成、そして義俊と継承された。

 元禄4年(1691年)7月21日に父義成の死去で家督を相続した。元禄5年(1692年)1月11日に奥高家となり、従五位下・侍従・河内守に叙任した。元禄6年(1693年)9月29日、高家の列を離れて小姓組に転じ、元禄7年(1694年)3月10日には300俵を加えられた。また元禄10年(1697年)7月26日には切米を知行地に改められて、武蔵国比企郡と入間郡に都合1420石を領した。宝永6年(1709年)2月21日から奥高家に復帰し、9月26日には皇居の工事が無事に終わったことに対する幕府の祝賀の使者として京都の朝廷へ派遣された。
 赤穂事件以来、高家の三河吉良家が断絶していたため、武蔵吉良家の義俊は、姓を蒔田から吉良に戻す許可を幕府に求めていたが、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。なお、同年に浅野長矩の弟浅野長広(大学)が旗本として浅野家を再興している。つまりこの年に、赤穂事件の「浅野」「吉良」両家が同時に再興する形となった。
 享保5年(1720年)1月9日、皇子若宮昭仁親王御誕生(のちの桜町天皇)の幕府の祝賀の使者として京都へ赴き、4月28日には従四位下に昇った。元文2年(1733年)4月19日、中御門上皇の崩御により、幕府の弔辞の使者として京都へ派遣された。元文5年(1736年)12月5日に奥高家職を辞して表高家(無役の高家)に列した。寛保2年(1742年)2月26日死去。享年73。