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細川義季 | 細川義俊 |
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足利氏3代当主・義氏が三河国の守護になると、兄の仁木実国らと三河額田郡細川郷に住み、細川次郎と名乗った。彼の子孫が室町幕府の三管領の一で、江戸時代に熊本藩の祖となった細川氏であるが、当時は三河の御家人の一人にすぎなかった。 |
父・義季が孫(義俊の子)である俊氏ら兄弟を養子にしていることから、義俊自身は早世したものと推測されている。鎌倉時代の細川氏は三河国の零細御家人の一人であったことから、歴代当主の動静はほとんど判明していない。 |
細川勝益 | 細川俊氏 |
正確な出生年はわかっていないが、諱から元服時に室町幕府7代将軍・足利義勝の偏諱を受けたことがわかる。 |
細川義俊の子だが、義俊は、早世したらしく祖父の細川義季の養子となり、細川氏の2代当主となる。通称、八郎。出家して頼西と号した。事績は伝わらないが、義季の本拠であった細川郷を本拠にしたらしく、同県豊田市幸町の隣松寺に、祖父義季,子の公頼とともに墓が現存する。 |
細川頼貞 | 細川顕氏 |
幼少時に曾祖父・細川義季の養子になったという。『太平記』によれば、建武2年(1335年)7月の中先代の乱の際、病床に臥していた頼貞が敵に立ち向かい切腹したという。一方、『梅松論』では、相模国河村山にて湯治していた頼貞の許に息子・顕氏から味方敗走のため上洛を勧める使者が派遣されたが、足手まといになるのを嫌った頼貞は、使者の前で自害したという。『尊卑分脈』も河村山で自害とし、『系図纂要』は建武2年7月20日、河村山で討死としている。いずれにしても、中先代の乱の最中に頼貞が死亡したのは間違いないようである。 |
従兄弟の和氏と共に元弘の乱頃から足利尊氏に仕えて討幕運動で活躍した。1336年、尊氏の命で和氏と共に四国に渡海し、四国における諸大名や国人衆の統率に功を挙げた。その功績により、讃岐国や河内国、そして和泉国の守護と侍所の頭人に任じられ、嫡流の和氏の死後はその弟の頼春と共に細川一門を主導した。その後も尊氏に従って畿内における南朝方の勢力と戦い、多くの武功を挙げた。1350年からの観応の擾乱では同族の頼春が尊氏に味方する一方で、足利直義側に与して尊氏と敵対するが、やがて再び帰順するなど、両陣営を巧みに渡り歩くしたたかさを見せた。このとき、引付頭人に任じられた。 |
細川輝経 | 細川定禅 |
将軍足利義輝から偏諱を賜い、輝経と名乗る。細川藤孝の長男忠興を養子とした。藤孝や一色藤長らと共に将軍家の近習として仕えていた。義輝の弟の足利義昭にも仕え、義昭が織田信長に追放された後も義昭に従い、中国地方に落ち延びた。その後、一族の細川藤孝,忠興を頼り、関ヶ原の戦いの前、輝経は細川邸にいて、忠興の妻ガラシャを守る。丹後久美浜城の守将を務めたが、西軍に内通したとして戦後に切腹させられた。 | はじめ鶴岡若宮の別当であったが、兄の顕氏や従兄弟の細川和氏と共に足利尊氏に仕えた。1335年、中先代の乱では尊氏に従って功績を挙げた。その後、尊氏の命を受けて四国・中国の国人衆を糾合し、翌1336年1月、尊氏の京都乱入と同時に攻め入り、武功を挙げている。同年2月、顕氏や和氏と共に再び四国に渡海し、同地の諸大名や国人衆を糾合する。5月の湊川の戦いにも参戦して武功を挙げている。その後も畿内における南朝勢力と戦って多くの武功を挙げたが、1339年8月の記録を最後に史料から姿を消した。 |
細川繁氏 | |
父と共に足利尊氏に仕えて南朝勢力と戦い、武功を挙げた。文和元年・正平7年(1352年)には父と共に和泉に遠征して南朝勢力を打ち破るという武功を挙げたが(男山合戦)、その直後に父が病死したため、家督を継いで讃岐・土佐守護となった。 |