清和源氏

G377:細川義季  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 細川義季 ― 細川公頼 G378:細川公頼

リンク {G373}
細川公頼 細川和氏

 通称は八郎太郎。後に出家して頼仏(頼西刺仏の略)または、景徳院と号した。その他の事績については全く伝わっていない。父同様細川郷を本拠にしたらしく、愛知県豊田市幸町の隣松寺に、曽祖父・義季,父・俊氏と共に墓が現存する。
 公頼以降の細川氏の嫡流は、当初は和氏の系統であったが、和氏の子の清氏が失脚・討死した後は、和氏の弟・頼春の系統が嫡流となり、後の三管領細川京兆家となる。師氏の系統は有力諸家である淡路守護家となった。  

 三河国細川郷出身。元弘の乱後から足利尊氏に仕え、討幕運動などでも功を挙げた。幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されると阿波守に任じられた。尊氏に従い北条氏残党の反乱である中先代の乱の鎮圧に参加し、そのまま建武政権から離反した尊氏に対して官軍が派遣されると、佐々木道誉や上杉憲顕らと共に迎え討ち、その後も軍事行動を共にする。
 延元元/建武3年(1336年)、京都奪還に失敗した足利勢が九州落ちすると細川氏は四国へ派遣され、和氏は従兄弟の細川顕氏と共に四国の諸大名や国人統率などで功を挙げた。足利勢が湊川の戦いで宮方を撃破し、京都を掌握した尊氏が幕府を開くと、引付頭人、次いで侍所頭人となる。その後、隠居して阿波秋月で過ごし、夢窓疎石を招き補陀寺を開く。
 興国3年/康永元年(1342年)9月13日、死去。享年47。

細川清氏 細川正氏

 三河国細川郷にて細川和氏の子として誕生。父・和氏の死後、若年であったため叔父・頼春の後見を受け、正平3/貞和4年(1348年)に河内国四條畷の戦いなどに従軍した。
 観応の擾乱では四国の軍勢を率い、尊氏方として直義方と戦う。正平7/文和元年(1352年)に伊勢・伊賀両国の守護となり、翌正平8年/文和2年(1353年)6月に直義の養子・直冬が京都へ侵攻した際には殿軍を務めて後光厳天皇を警固し、近江国塩津では天皇を背負って山越えをしたといわれる。
 正平9/文和3年(1354年)9月には若狭守護,評定衆,引付頭人に加え、相模守に補任される。翌年の直冬勢との京都攻防戦では東寺の敵本拠を破る活躍をした。正平13/延文3年(1358年)に尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、2代将軍・足利義詮の最初の執事に任ぜられた。
 清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動があり、幕府内には前執事・仁木頼章の弟・義長や斯波高経ら政敵も多かった。正平15/延文5年(1360年)5月、南朝に対する幕府の大攻勢の一環で清氏は河内赤坂城を陥れるなど活躍した。この最中に畠山国清ら諸将と反目した仁木義長が分国伊勢に逃れ追討を受けて南朝に降ると、清氏は幕政の実権を握ったが、将軍・義詮の意に逆らうことも多かったという。
 同年(康安元年、3月に改元)9月、義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぐと、清氏は弟の頼和・信氏らと共に分国の若狭へ落ち延びる。これについて、『太平記』は清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世(了俊)の『難太平記』では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。清氏は無実を訴えるものの、10月には斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津国天王寺に至り南朝に降った。12月には楠木正儀,石塔頼房らと共に京都を奪取するが、すぐに幕府に奪還された。
 正平17/康安2年(1362年)、清氏は細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐国へ移った。清氏追討を命じられた従弟の阿波守護・細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも)に拠って宇多津の頼之勢と戦った。『太平記』によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる。子・正氏は清氏の死後も南朝に属して抵抗した。清氏最期の地となった香川県坂出市には清氏始め被官36名が埋葬された「三十六」や「細川将軍戦跡碑」などがある。   

 細川氏6代当主。細川清氏の子として誕生。北朝・足利幕府の重鎮であった父の政争により、正平17/貞治元年(1362年)に父と共に南朝に降った。7月に讃岐国へ移った清氏勢を、幕府の命を受けた同族の細川頼之が追討してきたため、清氏は白峰城に籠ったがこの戦いで敗死した。 正氏は父の死後も南朝方として、幕府と北朝に抗戦した。一方で頼之が幕府内の政争により追討されると、幕府は正氏を阿波守として、四国へ逃れた頼之を追討させた。しかし、頼之により阿波に送り込まれた細川義之に諸衆は従い、正氏は山間部を支配するのがやっとであったと伝わる。
 以降、細川氏の主流は頼之の系統に移った。

細川師氏 細川氏春
 元弘の乱では足利尊氏に従い、倒幕に参加。建武政権では尊氏の弟である直義に随行して鎌倉へ下り、中先代の乱でも戦う。室町幕府成立後、淡路守護に任じられ、南朝方の宇原氏を征討した(立河瀬合戦)。以後、師氏の子孫が淡路守護を務める。 

 貞和4/正平3年(1348年)に父が死去したため、家督を継いで淡路守護となった。康安元/正平16年(1361年)に細川清氏が佐々木道誉らに讒言されて将軍・足利義詮によって追討令が出されたために清氏が南朝に降伏すると、それに従って南朝に降伏する。そして同年末には清氏と共に北朝方を破って京都を占領するに至った。
 その後、幕府の巻き返しにあって敗北し、貞治元/正平17年(1362年)に清氏と共に讃岐に渡海して再挙を図ったが、ここで幕命を受けた細川頼之に攻撃されて清氏は戦死し、氏春は降伏して幕府に帰順し、淡路守護に再任された。
 その後は幕府方の武将として応安6/文中2年(1373年)には河内で南朝勢力と戦い、武功を挙げた。嘉慶元/元中4年(1387年)10月19日に死去。

細川尚春

 文明15年(1485年)、父の死去により家督を継いで淡路守護となる。管領の細川政元に従い、永正2年(1505年)には政元の命令によって讃岐に侵攻して細川成之や三好之長らと戦うが敗れた。永正4年(1507年)に政元が養子の細川澄之に暗殺されると、細川高国や細川澄元らに味方して、澄之を戦死に追い込んだ。
 しかしその後、独立を企んで実権を握った高国と対立する。永正8年(1511年)に三好之長が高国に対して和泉で挙兵すると、それに呼応して淡路で挙兵し、播磨に侵攻したが、敗れて淡路に撤退する。その後、情勢不利となって高国に降伏したが、永正14年(1517年)に三好之長の淡路侵攻に敗れて和泉堺に逃亡する。そして、永正16年(1519年)5月11日、阿波において之長によって殺害されたのである。尚春の死去により、名実共に淡路守護細川家は断絶した。