義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏の拠点である摂関家領上野八幡荘を継承し、また義国と共に新たに上野新田郡の開拓事業に乗り出す。その過程で源氏一族の源義賢,武蔵国の秩父氏,下野の藤姓足利氏といった諸勢力とは緊張関係に陥るが、一方、南関東の支配者で弟・義康と相婿でもある源義朝・義平父子とは提携し、娘の祥寿姫を義平の室としている。また甥の足利義清を猶子とし娘を嫁がせている。 仁平3年(1153年)、内舎人に任官したことで山槐記に登場し、史上に初めて出る。保元2年(1157年)、平家系の藤原忠雅を領家として新田荘の立券に成功、新田荘司と称した。当時の上野国司・藤原重家の舅が鳥羽院御願寺金剛心院の造営に深く関与をした藤原家成であり、藤原氏北家花山院流忠雅の母の兄も家成であった。 ここに至り、かねてより敵対していた藤姓足利氏,秩父氏らと本格的に武力衝突し、渡良瀬川の強行渡河作戦によってこれを撃破し(秩父足利合戦)、さらに北関東における地盤を確固たるものにした。同時に、父・義国が加冠を行った源義清の子である甲斐国の武田信義と親交があり、信義の嗣子信光に自分の娘を嫁がせ、信義の弟・加賀美遠光の加冠を義重が行なっている。また、源盛義とも親交が深く、平賀氏一族の義隆,義澄,義資(義職)を猶子としている。更に、治承・寿永の乱に際して猶子であり娘婿でもある矢田義清が木曾義仲に与した。このことが頼朝の反感を買った要因の一つとされている。 平家全盛時代にはこれに臣従し、従五位下・大炊助に任ぜられた。 治承4年(1180年)の源頼朝挙兵の際には、甥の足利義兼,子の山名義範,孫の里見義成らが早期にその麾下に帰参したのに対し、義重は一時日和見的態度を取る。この背景には、北関東での主導的地位にあり頼朝を格下に見ていたことや、新田荘が平家方の荘園であったこと、また木曾義仲とは親子2代に渡る宿敵関係でありこれを牽制する必要があった、といった要因が挙げられる。 やがて頼朝の威勢興隆を目の当たりにし慌てて鎌倉に駆けつけるが容易に頼朝の不信感を拭うことはできず、安達盛長の取り成しでようやく帰参が叶ったという。さらに、未亡人となっていた娘の祥寿姫を頼朝の側室にと乞われるもこれを拒否し、より一層頼朝の不興を買ったと伝えられている。 甥の足利義兼が逸早く頼朝の下に駆けつけて活躍し、以後代々北条氏と姻戚関係にあって強固に結びつくことによって幕府内での地位を保ったのに対し、義重の鎌倉政権内における立場は常に微妙であり、鎌倉幕府成立のために積極的に協力したとは言いがたいものがあった。このことが足利・新田両氏の処遇の差となって表れ、後代まで尾を引いていくことになる。ただし義重自身は源家の最長老であり、幕府成立時点で八幡太郎義家にもっとも血統が近い者として一定の敬意を受けていたようである。この頃に出家し、上西入道と称したという。 晩年は、嫡男・義兼と共に新田家の家督を継いだばかりの曾孫の政義の後見役を務めた。建仁2年(1202年)に老衰のために新田荘で没した。『新田足利両家系図』によると享年89、『尊卑分脈』では享年68とする。 慶長16年(1611年)3月22日、義重の子孫と称する徳川家康により、鎮守府将軍に任官される(贈官)。
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古文書や『吾妻鑑』など確かな史料上では確認できない人物であり、館の存在も不詳である。ただし既存の系図上では、新田義重の子息として兄4人(義俊,義範,義兼,義季)と並び必ず記載される人物である。額戸氏の一族は同族の里見氏流大井田氏と共に、越後国に進出して長岡氏,風間氏などの支流が出ている。 なお子孫の姓から、新田荘東北部の額戸郷と長岡郷を伝えたとみられる。
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