清和源氏

G312:新田義重  源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義国 ― 新田義重 ― 得川義季 G330:得川義季

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世田良頼氏 世田良満義

 父から上野国新田郡(新田荘)世良田郷を譲られて世良田弥四郎と称し、世良田氏の祖となった。義季・頼氏父子は世良田郷近辺の所領の開発を進め、富を蓄えて新田氏一族中の実力者となっていたらしい。
 1244年、新田義重の曾孫で新田氏本宗家の惣領、新田政義が京都大番役を任務途中で幕府に無断で放棄し出家するという事件を起こした。幕府はただちに政義と新田本宗家から新田氏惣領職を没収し、頼氏と新田一族の岩松氏に分割して与えた。頼氏は将軍の近習として幕府に出仕し、高い地位に昇った。この頃、三河守に任官したようである。こののち、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には頼氏を指して「新田三河前司」と呼んでいる。
 しかし、1272年に執権の北条時宗が謀反を企てた異母兄北条時輔を討つ事件二月騒動が起こると、頼氏の正室は名越教時の姉妹であったため、事件に連座して失脚し佐渡に流された。同年6月に同地で死去。 

 上野国新田荘世良田郷領主。新田義貞の鎌倉攻めに従い、稲村ヶ崎にて安東聖秀勢を破る。延元3年/建武5年(1338年)義貞が越前にて戦死すると世良田郷に戻る。
 満義は元享3年(1323年),嘉暦3年(1328年),元徳2年(1330年)に長楽寺に田地等を寄進している。 

世田良政義 世田良親季
 南朝方に属す。新田氏旗下。応永4年(1397年)桃井宗綱と諮り宗良親王の王子尹良親王を上野寺尾中城に迎える。応永31年(1424年)親王が信濃諏訪城に入ると政義は挙兵し信濃各地にて転戦するが、三河に向かう途上で信濃浪合にて戦死したと伝わる(浪合の合戦)。   新田義宗あるいは世良田政義の庶子とされる。鎌倉公方の足利満兼に上野国新田郡得川郷の領地を与えられた。天野源蔵『浪合記』によると、元中2年/至徳2年12月朔日(1385年1月)に、尹良親王が、三河国を目指すために信濃国浪合村で、足利将軍家方の一色氏と細川氏の軍勢と戦って、父の政義および叔父の義秋をはじめ、羽河景庸,熊谷直近とともに戦死したとされる(浪合の合戦)。松平清康とその孫の徳川家康は親季の子孫と称した。 
世田良有親

 松平氏(徳川氏)の実質的な祖とされ、松平親氏の父とする。また孫の泰親を有親の子であるとする説もある。さらに『尾張諸家系図』によると、尾張平手氏祖の平手義英も有親の子とされる。しかし、これは後世の系譜の仮冒とされ、実際は久松氏と同族とされ、菅原氏から出たとの説もある。さらに尾張国の豪族・荒尾宗顕(在原姓荒尾氏)の系統、賀茂氏の流れなど諸説あって判然としない。
 『鑁阿寺新田足利両家系図』(鑁阿寺系図)では父・親季は新田義宗の子で得川政義の養子とし、世良田満義の末裔と伝えている。
 『好古類纂』系譜部所収の「徳川家譜」によれば、世良田政義の子で親季の弟、子は家氏のみとし、親氏の叔父にあたるとする。
 『鑁阿寺系図』によると、父・親季が鎌倉公方足利満兼から上野国新田郡得川郷に領地を与えられており、有親はこの恩に報いるため、永享の乱で子の親氏と足利持氏方についたという。持氏の敗北後、相模国で父子共に出家して信濃国に向かい、その後三河国へ流れていったという。『徳川諸家系譜』では三河国愛知郡一柳庄荒子村に住んだとする。
 一方、至徳2年(1385年)に信濃国浪合村で起こった浪合の合戦で、世良田政義とともに有親は戦死したともいわれる。「徳川家譜」では、応永14年(1407年)に出家しており、同31年(1424年)、弟政満の子・政親、叔父の義秋らとともに戦死したとする。
 『藤沢寺記』によれば、有親は浪合で戦死せず、同族の脇屋義治・義隆父子とともにいったん奥羽に逃れ、幕府方の詮索から逃れるために出家したという。
 『称名寺略記』では有親は子の親氏とともに、石川孫三郎という人物を従えて三河国松平郷に流れ着いたという。なお『遊行・藤沢両上人御歴代系譜』は親氏が長男で泰親が次男だと伝える。
 有親自身は子の親氏と同様に実在の人物なのかどうか存在を疑う説もある。同時に有親は時宗の放浪僧ではなく、東国から流れてきた武士が浪人となった身で、縁戚とされる賀茂氏の血筋を引く松平太郎左衛門少尉信重家を子とともに乗っ取った説、諸国を放浪する中世の職人とよばれる身分だったとする諸説もある。宝賀寿男『古代氏族系譜集成』では、「陰陽寮下司系図」の「加茂系図」にある在原在久の子・在親が有親であるとして、得川(世良田)有親を在原氏としている。