清和源氏

G631:源 満快  源 経基 ― 源 満快 ― 夏目国平 G634:夏目国平

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夏目国平 夏目国宗

 初代夏目家当主である。父の二柳国忠は源頼朝に仕え、藤原泰衡に対する奥州合戦の時、軍功があって信濃国の夏目村(現在の長野県伊那市/飯田市/駒ヶ根市夏目大字)の地頭職を与えられた。更級郡夏目邑,伊那郡夏目邑という。国平は二ツ柳家より分家し、夏目邑(石川邑夏目平)に移り、夏目を家号とした。
 土着した子孫の居城は夏目城(石川邑鶴牧城)であり、鎌倉時代末期または室町時代初期の築城で、現在は湯ノ入神社となっている。
 家紋は籬架菊で、他の使用者は甲斐源氏の逸見氏と、それぞれの家にゆかりのある者のみが使用しているとても珍しい家紋である。

 国宗の4男・宗泰は三河国設楽郡夏目に移り、子孫は遠江国敷智郡岡本郷八幡宮神官となった。5男・宗忠の系は甲斐国八代郡夏目原に住んで武田氏に属し、のちに徳川譜代井伊家に仕えた。3男の国泰が本家を継ぎ三河国幡豆郡六栗に移った。
夏目吉信 夏目吉次

 吉信は清康,広忠,家康の三代に仕えた。永禄4年(1561年)、三河長沢城攻めで軍功を上げ、永禄5年(1562年)に板倉重定を攻めた三州八幡合戦(八幡村城)の際には、今川氏の攻撃で家康(元康)方が総崩れになった際、殿を務めて、国府までの間、6度踏み止まり奮戦したという。後に家康から軍労を賞され備前長光作の脇差を賜った。
 ところが、永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起こると一揆側に加担し、大津半右衛門,乙部八兵衛,久留正勝ら門徒と共に野羽城(六栗城との説も)に籠って松平家康に叛いて敵対した。しかし乙部八兵衛の内通によって砦が陥落すると、攻め手の松平伊忠に捕らわれたが、乙部の助命嘆願によって許され、伊忠の附属となった。後に忠義の士であるとして、伊忠が家康に嘆願して正式に帰参を許された。同年7月3日、三河・遠江の郡代となる。
 元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いの時、吉信は浜松城の留守居だったが、味方が敗色濃厚なのを知って家康の救援に向かう。退却を進言するが、止めるのも聞かず家康が決死の突撃をしようとするので、説得を諦めて、強引に乗馬の向きを変えて、刀のむねで打って奔らせた。家康を逃がすために、25騎を率いて武田勢の追手に突入して奮戦。身代わりとなって戦死した。享年55。家康はその忠死をいたんで、その子・吉忠に伊豆韮山一万石の恩命があったが、その直後に吉忠が没し実現しなかった。さらに、吉忠の次代には子がなく夏目宗家は絶えた。
 墓所は愛知県額田郡幸田町の明善寺と愛知県岡崎市本宿町の法蔵寺境内にある。後者は吉信の忠節を讃えて家康が建立させたものである。家康は吉信に信誉徹忠の号を与えて、寺に月拝供養を命じた。

 信次は年少のころから家康側近に仕え、小牧・長久手の戦いから大坂両陣まで家康に従って各地で戦った。
 口論となった同僚を斬り殺し出奔し、変名して徳川氏に仕えていた。関ヶ原の戦いの直後に家康にその事が露見するが、父・吉信の忠節を考慮し許された。また、大坂夏の陣の後に家康に呼ばれ「今こうしていれるのもお前の父のおかげだ、感謝している」と礼を言われ徳川秀忠の家臣に配された。子孫は代々旗本家として仕えた。

夏目金之助(漱石)

 近代日本文学の文豪。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』など。
 江戸の牛込馬場下にて、名主の夏目小兵衛直克と千枝夫妻の末子(5男)として出生した。幼年期は里子に出されるなど苦労を重ねたが、1890年(明治23年)、帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始めた頃に正岡子規と出会う。1900年(明治33年)5月、文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられ、3年後、帰国して第一高等学校と東京帝国大学の講師になる。しかし、一高での受け持ちの生徒であった藤村操の入水自殺事件もあり、神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、明治大学の講師も務める。その年の暮れ、高浜虚子から神経衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆。
 1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で入院。同年8月、療養のため伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養するが、そこで胃疾患になり、大吐血を起こして生死の間を彷徨う危篤状態に陥る(修善寺の大患)。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。
 1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
 1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされ、その年の12月9日、体内出血を起こし『明暗』執筆途中に自宅で死去(49歳10か月)。死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。