<藤原氏>南家

F051:工藤祐長  藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 ― 工藤祐長 ― 分部光直 F052:分部光直

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分部光嘉 分部光信

 永禄11年(1568年)に織田信長が伊勢に侵攻して来ると、兄の藤敦と違って和睦を主張し、信長の弟・織田信包の長野氏養子入りを進めるなど、織田氏に従属する立場を貫いている。信長没後は織田信包や豊臣秀吉に仕えた。
 元亀元年(1570年)、織田信包の指示により、津城の仮城として伊勢上野城を築城した。信包が完成した津城に移った後は、上野城は津城の出城となり、その後、豊臣秀吉から1万石を受けて、光嘉は独立した伊勢上野城主となった。
 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると徳川家康に与して安濃津城を西軍の伊勢侵攻から守り、戦後、その功により2万石に加増された。しかし翌慶長6年(1601年)11月29日、関ヶ原の戦いで受けた傷がもとで死去した。 

 天正19年(1591年)、伊勢国雲林院において、長野正勝(次右衛門)の子として誕生。母は分部光嘉の娘。
 慶長4年(1599年)、分部光嘉の嫡男の光勝が死去すると、光嘉の外孫にあたる光信が養嗣子となる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際には分部氏本家によって同じ東軍に属した富田信高への人質として差し出された。慶長6年(1601年)から徳川氏に仕える。光信は二条城や駿府城,大坂城,佐和山城の普請で功を挙げた。慶長9年(1604年)6月22日には叙任している。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では本多忠政に属して功を挙げ、翌年の夏の陣でも功を挙げたため、元和5年(1619年)8月に近江大溝藩に移封された。
 寛永3年(1626年)、徳川家光の上洛に従う。寛永11年(1634年)、織田信長によって比叡山焼き討ちされていた比叡山延暦寺の復興奉行を務めた。藩政では領民に金子を分配するなど、善政を敷いたと言われている。寛永19年(1642年)5月に病に倒れ、翌年2月22日に53歳で死去。墓所は京都府京都市北区紫野の大徳寺塔頭の大慈院。 

分部嘉治 分部嘉高

 寛永4年(1627年)9月11日、初代藩主・分部光信の3男として誕生。兄2人が早世したために世嗣となり、寛永20年(1643年)に父が死去したことにより、3月26日に遺領を継いだ。4月18日、徳川家光に御目見し、12月29日に従五位下伊賀守に叙任。正保元年(1645年)4月26日に初めて領国入りのための暇を得る。
 正保3年(1647年)には、大溝藩領小川村出身の陽明学者・中江藤樹を招いている。藤樹は大溝藩士・別所友武の娘・布里と再婚し、慶安元年(1648年)春には小川村に藤樹書院を落成させた。同年8月25日に藤樹が没したのち、門弟の中川謙叔らは祠堂に集まって3年の喪に服そうとしたが、大溝藩は彼らに立ち退きを命じ、弟子たちは離散した。謙叔は大溝藩主・嘉治を強い表現で批判する文章を残している。藤樹の「心学」(陽明学)を忌避した江戸幕府が大溝藩を通して藤樹書院の解散を命じたとする説があるが、明確ではない。
 明暦4年(1658年)7月9日、大溝において妻の叔父である池田長重と対談中に刃傷沙汰となった。長重は、もとは兄である池田長常(備中松山藩主)の家臣であったが、当時は浪人となって京都で暮らしていた。長重が大溝に赴いて嘉治と面会したのであるが、夜に入って互いに刀を抜いての斬り合いになった。長重は斬殺され、嘉治も翌10日に傷が元で命を落とした。享年32。
 家臣の和田主殿,原田左近,別所七郎左衛門らの働きにより、長男・嘉高(11歳)の家督相続が認められた。和田,原田,別所の3名は嘉治に殉死し、その墓は嘉治の墓の近くに設けられた。 

 慶安元年(1648年)9月19日、2代藩主・分部嘉治の長男として誕生。母は備中松山藩主・池田長常の娘。
 明暦4年(1658年)7月9日、父の嘉治が妻の叔父の池田長重と対談中に刃傷沙汰となり、長重はその場で斬殺、嘉治も傷がもとで翌日死亡するという事件が発生する。このため11歳の嘉高がその跡を継ぐこととなった。同年(万治元年)閏12月2日に遺領相続が認められ、同10日に徳川家綱に御目見。この際、父が遺した青江の刀を家綱に献上した。万治3年(1660年)12月28日、従五位下若狭守に叙任。
 寛文2年(1662年)5月1日、寛文近江・若狭地震が発生し、琵琶湖西岸から若狭地方に大きな被害がでた。大溝での震度は6以上と推定され、大溝領内で家屋敷の倒壊1022軒、死者30名余の被害が報告されている。大溝藩は領内の被害が甚大であることを理由として、前年秋に命じられていた仙洞御所の作事手伝いを5月11日に免除された。地震発生時点で仙洞御所の工事は未実施であり、大溝藩は作事手伝いのために準備した資金や人員を城下及び領内の復興に回したと考えられる。
 寛文3年(1663年)8月には、越前の真宗高田派の真教・専誉父子を預けられる。寛文5年(1665年)、初めて領国に入る。
 寛文6年(1666年)、藩領内において大洪水のために凶作となると、嘉高は所持していた郷義弘の名刀を4代将軍・徳川家綱に献上し、その見返りとして得た黄金400枚を領内の復興と窮民救済に当てた。この寛文6年には「大溝酒造仲間」16株が成立する。
 寛文7年(1667年)6月12日、死去。享年20。嘉高には嗣子がなく、末期養子として母のいとこにあたる分部信政が迎えられた。 

分部信政 分部光命

 承応元年(1653年)12月14日、旗本・池田長信(備中松山藩初代藩主・池田長幸の3男)の3男として誕生。
 寛文7年(1667年)、16歳の時に縁戚関係にあった大溝藩主・分部嘉高の末期養子に迎えられる。嘉高の母は池田長常(長信の兄)の娘であり、すなわち嘉高の母と信政は従姉弟という関係にあたる。8月25日に遺領相続が認められる。9月5日に徳川家綱に御目見し、広光の脇差を献上した。12月28日、従五位下隼人正に叙任。
 寛文9年(1669年)には領内が洪水による被害を受け、9月に幕府から3000石の米を貸し与えられた。寛文10年(1670年)4月22日、初めて領地入りのための暇を与えられる。
 延宝4年(1676年)には再び水害を蒙り、10月に参勤交代の延期を願い出て許された。元禄2年(1689年)4月26日、戸田直武(元大目付・勘定奉行)を預けられる。元禄8年(1695年)、越前国丸岡藩の本多重益が改易されると、3月28日に命令を受けて丸岡城守衛を務めた。元禄15年(1702年)11月10日、若狭守に遷任。宝永7年(1710年)には加藤助之進を預けられた。
 正徳4年(1714年)6月23日、3男・光忠に家督を譲って隠居し、同年12月18日[2]、大溝において死去。享年63。 

 正徳4年(1714年)1月8日、5代藩主・分部光忠の長男として誕生。母は側室の谷氏で、嫡母(父の正室)の田村誠顕の娘に養われた。享保14年(1729年)2月28日、16歳で徳川吉宗に御目見。享保16年(1731年)、父の死を受けて、5月6日に遺領相続が認められる。同年12月23日、従五位下和泉守に叙任。享保18年(1733年)4月15日、初めて領国入りするための暇を与えられる。延享元年(1743年)5月12日、若狭守に遷る。
 延享4年(1747年)には城下で大火が発生し、6町170軒が焼失する大きな被害を出した(「大溝の大火」と呼ばれる)。寛延2年(1749年)にも56軒を焼く大火が発生している。
 宝暦4年(1754年)9月7日、長男・光庸に家督を譲って隠居。宝暦10年(1760年)には病気療養を理由に摂津国有馬温泉にて保養した。明和6年(1769年)に剃髪して風斎と号する。天明3年(1783年)11月17日、大溝において死去。享年70。 

分部光庸 分部光実

 元文2年(1737年)11月29日、6代藩主・分部光命の長男として大溝において誕生。『寛政重修諸家譜』では享保19年(1734年)生まれと記している。
 寛延3年(1750年)6月1日、徳川家重に御目見。宝暦4年(1754年)9月7日、父・光命の隠居により跡を継ぎ、同年12月18日に従五位下隼人正に叙任。宝暦5年(1755年)4月15日、はじめて領国入りするための暇を与えられる。現存する大溝陣屋の総門は、宝暦5年(1755年)に建設されたものである。女院使接待役、勅使接待役など公家の接待役などを務めた。
 安永元年(1772年)5月22日、若狭守に遷る。天明5年(1785年)3月10日、長男・光実に家督を譲って隠居。隠居号として静好を称した。寛政2年(1790年)8月26日死去、享年54。『寛政重修諸家譜』では享年57とする。赤坂種徳寺塔頭の松渓院に葬られた。 

 宝暦6年(1756年)6月21日、7代藩主・分部光庸の長男として大溝にて誕生。天明5年(1785年)3月10日、父が隠居したため、その跡を継いだ。4月19日には初めて領国入りをするための暇が認められた。同年6月、藩校「修身堂」を創設し、中村鸞渓(中村徳勝)をその長(文芸奉行)に任命した。天明6年(1786年)12月18日、従五位下左京亮に叙任。
 天明8年(1788年)6月には心学者の中沢道二を登用するなどして学問発展に尽くした。また、藩内で博打などが横行して士風が緩んでいたため、博打を禁止し、厳格な法令を制定することで風紀の立て直しを図った。藩財政においても窮乏化を再建するため、自らが厳しく倹約することで見本とした。寛政3年(1791年)には大倹約令を出した。
 文化5年(1808年)4月23日死去。享年53。跡を次男・光邦が継いだ。 

分部光貞 分部光謙

 文化13年(1816年)7月、上野国安中藩4代藩主・板倉勝尚の子として誕生した。板倉家の部屋住み時代は渋川姓を名乗った。幼少の折から文武の道に励んだ。文政13年(1830年)9月15日、10代藩主・分部光寧の養嗣子となる。天保2年(1831年)1月15日、11代将軍・徳川家斉に御目見得する。同年3月10日、光寧の隠居により家督を継いだ。天保3年(1832年)12月16日、従五位下に叙位され若狭守を名乗る。
 高名な陽明学者でもあった大坂東町奉行与力の大塩平八郎は、天保3年(1832年)6月にはじめて藩領小川村の藤樹書院を訪れた。陽明学派の祖とみなされていた中江藤樹の旧跡をたどることはかねてから大塩の念願であり、天保4年(1833年)6月には同書院に『王陽明全集』を寄贈、9月には同書院で講義を行っている。このように大塩と大溝の人々との間には交流があり、藩主である光貞とも交流を持った。天保8年(1837年)に大塩が窮民救済を訴えて決起した騒乱(大塩平八郎の乱)には小川村の医師・志村周次らも参加している。大塩の知性と学風に共鳴する者が少なくなかった大溝藩では、この泰平の世を揺さぶり起す如き大塩の乱で動揺し、ただ大塩の著書を持っていたに過ぎない者でも処罰を恐れてこれを焼き捨てたり隠匿したりと、上を下への大騒ぎとなった。
 光貞は江戸で儒者の佐藤一斎や河田屏浦,川田甕江(川田剛)らの講義を受けていたが、安政年間に甕江を賓師の礼をもって大溝に招いた。甕江は藩校修身堂で講義にあたるとともに、光貞の命を受け『中江藤樹先生年譜』や『徳本堂記』の編纂にもあたった。その後、甕江は安政4年(1857年)に備中松山藩主・板倉勝静に仕えた。
 文久3年(1863年)の八月十八日の政変においては、自ら兵を率いて京都の守備を務めた。その功績を孝明天皇に賞賛されて、金子を与えられている。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で大溝藩知事となるが、明治3年(1870年)4月12日に死去した。享年55。 

 文久2年11月3日(1862年12月23日)、11代藩主・分部光貞の次男として誕生した。明治3年4月25日(1870年5月25日)、父・光貞の死去により9歳で家督を相続する。相続の時点で既に版籍奉還後であり、相続から4日後の4月29日(5月29日)に大溝藩知事に就任するが、大溝藩の財政は負債が年収の数倍に達し、極めて悪化していた。明治4年6月23日(1871年8月9日)、廃藩置県に先立ち廃藩願いを受理されて知藩事免職となり、大溝藩は大津県に編入される。
 知藩事を辞した後、光謙は東京府へ移って学習院へ入学し、学士の資格を取得する。1884年(明治17年)7月、華族令により子爵を授けられる。鹿鳴館時代には社交界の花形と言われたといい、貴族院議員に立候補するなどしたという。
 その後、光謙は競馬にのめり込み、当時最強の名馬とも言われた「岩川」など多数の馬を所有する日本最大の馬主となり、自らも騎手として活躍した。しかしこうした光謙の浪費により、分部家は経済的に行き詰まっていく。1886年(明治19年)11月8日、東京始審裁判所で身代限りを申し渡されている。さらに1887年(明治20年)7月4日、家産の浪費により華族の品位を汚したたとして、謹慎10日の処分を受けている。
 1902年(明治35年)7月11日、光謙は子爵を返上した。収監も経験しているが、獄中で聖書と内村鑑三の著書に出会って人生観を変えたという。1908年(明治41年)に旧藩地に戻り、後半生は高島で送った。旧領とはいえすでに屋敷もなく、仮住まいであったが、聖書研究の会や青少年を対象とした英語の塾を開いた。
 1909年(明治42年)に自宅ではじめた聖書研究会は間もなく「日本聖公会大溝講義所」に発展し、分部夫妻をはじめ10名ほどが受洗した。しかし1912年(明治45年)には素封家の福井邦蔵(のちに日本基督教団明石教会名誉牧師)が信仰を告白したことが契機となって高島では反キリスト教運動が発生し、盛んであった聖公会の集会はさびれてしまったという。また、聖公会の伝道が障害を受けるとともに、聖公会の形式に飽き足らない思いを抱いた信者の中には聖公会とは別の集会を作る動きもあらわれた。日本基督教団大溝教会は光謙を教会の創立者に位置づけており、教会創立日を1908年(明治41年)8月2日としている。同教会のオルガンは、光謙が帰郷した際に東京から持参したもので、集会の際には夫人が演奏したという。
 太平洋戦争も末期にさしかかった1944年(昭和19年)11月29日、83歳で死去した。滋賀県高島市勝野の円光寺にある分部家歴代の墓所の一角に墓がある。