F051:工藤祐長 | 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 ― 工藤祐長 ― 分部光直 | F052:分部光直 | ● |
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分部光嘉 | 分部光信 |
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永禄11年(1568年)に織田信長が伊勢に侵攻して来ると、兄の藤敦と違って和睦を主張し、信長の弟・織田信包の長野氏養子入りを進めるなど、織田氏に従属する立場を貫いている。信長没後は織田信包や豊臣秀吉に仕えた。 |
天正19年(1591年)、伊勢国雲林院において、長野正勝(次右衛門)の子として誕生。母は分部光嘉の娘。 |
分部嘉治 | 分部嘉高 |
寛永4年(1627年)9月11日、初代藩主・分部光信の3男として誕生。兄2人が早世したために世嗣となり、寛永20年(1643年)に父が死去したことにより、3月26日に遺領を継いだ。4月18日、徳川家光に御目見し、12月29日に従五位下伊賀守に叙任。正保元年(1645年)4月26日に初めて領国入りのための暇を得る。 |
慶安元年(1648年)9月19日、2代藩主・分部嘉治の長男として誕生。母は備中松山藩主・池田長常の娘。 |
分部信政 | 分部光命 |
承応元年(1653年)12月14日、旗本・池田長信(備中松山藩初代藩主・池田長幸の3男)の3男として誕生。 |
正徳4年(1714年)1月8日、5代藩主・分部光忠の長男として誕生。母は側室の谷氏で、嫡母(父の正室)の田村誠顕の娘に養われた。享保14年(1729年)2月28日、16歳で徳川吉宗に御目見。享保16年(1731年)、父の死を受けて、5月6日に遺領相続が認められる。同年12月23日、従五位下和泉守に叙任。享保18年(1733年)4月15日、初めて領国入りするための暇を与えられる。延享元年(1743年)5月12日、若狭守に遷る。 |
分部光庸 | 分部光実 |
元文2年(1737年)11月29日、6代藩主・分部光命の長男として大溝において誕生。『寛政重修諸家譜』では享保19年(1734年)生まれと記している。 |
宝暦6年(1756年)6月21日、7代藩主・分部光庸の長男として大溝にて誕生。天明5年(1785年)3月10日、父が隠居したため、その跡を継いだ。4月19日には初めて領国入りをするための暇が認められた。同年6月、藩校「修身堂」を創設し、中村鸞渓(中村徳勝)をその長(文芸奉行)に任命した。天明6年(1786年)12月18日、従五位下左京亮に叙任。 |
分部光貞 | 分部光謙 |
文化13年(1816年)7月、上野国安中藩4代藩主・板倉勝尚の子として誕生した。板倉家の部屋住み時代は渋川姓を名乗った。幼少の折から文武の道に励んだ。文政13年(1830年)9月15日、10代藩主・分部光寧の養嗣子となる。天保2年(1831年)1月15日、11代将軍・徳川家斉に御目見得する。同年3月10日、光寧の隠居により家督を継いだ。天保3年(1832年)12月16日、従五位下に叙位され若狭守を名乗る。 |
文久2年11月3日(1862年12月23日)、11代藩主・分部光貞の次男として誕生した。明治3年4月25日(1870年5月25日)、父・光貞の死去により9歳で家督を相続する。相続の時点で既に版籍奉還後であり、相続から4日後の4月29日(5月29日)に大溝藩知事に就任するが、大溝藩の財政は負債が年収の数倍に達し、極めて悪化していた。明治4年6月23日(1871年8月9日)、廃藩置県に先立ち廃藩願いを受理されて知藩事免職となり、大溝藩は大津県に編入される。 |