<藤原氏>南家

F047:伊東祐継  藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 ― 工藤祐長 F051:工藤祐長

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工藤祐長 長野藤継

 曾我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の3男。父・祐経は建久4年(1193年)5月、曾我兄弟によって殺害された。祐長は伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃郡,奄芸郡2郡を給わった。
 祐長の子・工藤祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが長野氏の起源である。伊勢国に勢力を持った有力国人となった。元来は工藤氏と称していたため、他の長野氏と区別するために「長野工藤氏」と呼称されている。 

 長野工藤氏の第11代当主。宝徳元年(1449年)、第9代当主・長野宗忠の子として生まれる。寛正3年(1462年)に兄で第10代当主の長野政藤が早世したため、家督を継いで第11代当主となる。応仁の乱では西軍(山名氏)に属して、東軍(細川氏)に与した北畠氏と対立し、桑名まで進出する。また土岐氏とも同盟を結び、北畠氏を圧迫した。文明11年(1479年)に北畠政郷が侵攻して来たときには、これを破って長野氏の勢威を高めた。文明18年(1486年)7月5日に死去。享年38。跡を弟の長野藤直が継いだ。 
長野稙藤 長野藤定

 永正元年(1504年)、第13代当主・長野通藤の子として生まれる。幼名は金吾。享禄3年(1530年)に父が死去したため、家督を継いで第14代当主となる。伊勢の支配権をめぐって北畠晴具や北畠具教と争った。
 天文年間中期から後期にかけて、嫡男の長野藤定に家督を譲って隠居したものと思われるが、その後も藤定と共に軍を指揮し、政務を執っていた形跡があることなどから、藤定と共同統治を行なっていたと推測される。
 北畠氏との抗争はその後も続いたが、天文16年(1547年)から北畠晴具の侵攻に次第に押され気味となり、永禄元年(1558年)に北畠具教の次男・具藤を藤定の養子に迎え、家督を強制的に譲らされることで和睦した。実質的に長野氏は北畠氏に臣従することになる。
 永禄5年(1562年)5月5日に死去。享年58(永禄4年1月8日(1561年1月23日)死去説もある)。永禄5年説をとる場合、同日に嫡男の藤定も死去しているため、北畠氏に暗殺された可能性が高い。 

 大永6年(1526年)、第14代当主・長野稙藤の子として生まれる。父より早くから家督を譲られて第15代当主となり、父と共同統治を行なっていたようである。天文12年(1543年)からは南伊勢の支配権をめぐって北畠晴具,北畠具教らと争ったが決着は着かず、今度は北畠氏と和睦し、さらに南近江の六角定頼とも和睦して、北近江の浅井氏を攻めている。
 しかし北畠氏と再び抗争を開始し、天文16年(1547年)からは北畠晴具の猛攻を受けた。この侵攻に次第に押され気味となった長野氏は、永禄元年(1558年)に北畠具教と和睦し、具教の次男・具藤を養子に迎えて家督を譲ることを余儀なくされた。形式的には和睦だが、実質的には臣従である。
 永禄5年(1562年)5月5日に死去。享年37。その死は病死といわれているが、父・稙藤も同日に死去しているため、北畠氏による暗殺説もある。

長野具藤 細野藤敦

 天文21年(1552年)、伊勢北畠氏の当主である北畠具教の次男として生まれる。
 永禄元年(1558年)、父・具教が長野氏と和睦したとき、父の命によって第15代当主・長野藤定の養子として送り込まれ、長野氏の家督を継承することとなる。その後は父に従って長野軍を指揮し、永禄2年(1559年)に赤堀氏、また関氏などを攻めたが、いずれも敗北した。
 永禄11年(1568年)、尾張国の織田信長が伊勢に侵攻して来ると、具藤は徹底抗戦をしようとしたが、同じく抗戦を主張した長野氏一族の細野藤敦と対立して内紛を起こしてしまい、具藤は藤敦に敗れて多芸城に逃亡した。これにより長野氏は和睦派が主導権を掌握し、永禄12年(1569年)には信長に降伏し、信長の弟・信包を長野氏の当主として迎えたため、具藤は当主としての地位を失うこととなる。
 天正4年(1576年)11月、信長とその次男・信雄によって、田丸城において北畠一族もろとも殺害された。

 諱は「守清」とも。安濃津城主。剛勇を以て知られるが、北畠家より養子に入った主君・長野具藤とは仲が悪かった。
 永禄11年(1568年)に織田信長が長野領に侵攻してきたときは、和睦を主張する弟・分部光嘉らの反対を押し切って、自城に籠って防戦しようとした。 分部光嘉,川北藤元らは織田家に内応して織田信包に長野氏の跡を継がせるべく画策し、藤敦が織田家に寝返ったと讒言して、具藤に藤敦を攻めさせた。 藤敦はやむなくこれを撃退し、具藤を追放して織田家に降伏することとなった。
 しかし、信包とは折り合いが悪かったようで、天正5年(1577年)2月に信包の軍勢に居城を攻められ弟2人は戦死。自身も城を落ち延び、蒲生氏郷を頼った。
 後に豊臣秀吉が天下人となると、その家臣として仕え、秀吉側室の松丸殿や大政所の家司を務めた。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属して失領。1603年に京都にて64歳で没した。 

雲林院祐基

 長野工藤氏の分家である雲林院氏を継承した。織田信長の伊勢侵攻で長野工藤氏は信長の実弟・織田信包を養子に迎えることになったとき、祐基はそれを認めて臣従した。その後は信長に接近して雲林院氏の存続を図ったが、一方で信包とは対立したため、天正8年(1580年)、居城・雲林院城を奪われて追放された。そのため、婿の矢部家定を頼って安土へと行き、家定の執り成しによって微禄ではあるが信長の直臣として召し抱えられた(勢州軍記)。信長死後は伊勢に戻り、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉に属した。
 子の祐光は滝川一益の婿であり、諸国を流浪した後に豊臣秀吉に召抱えられたといわれる(勢州軍記)。