永禄7年(1564年)、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲で生まれ、幼名を古新といった。元服してからは照政と称した。照政の名乗りは慶長12年閏4月9日まで確認され、7月3日からは輝政に改名していることが確認される。父や兄・元助と共に信長に仕え、輝政は信長の近習となる。 天正元年(1573年)、母方の伯父・荒尾善久の養子となり木田城主となる。荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでは天正7年(1579年)11月に父と共に摂津倉橋に在陣した。天正8年(1580年)、花隈城攻略の際には北諏訪ヶ峰に布陣し、閏3月2日に荒木軍の武士5,6名を自ら討ち取る高名を立て、信長から感状を授けられた。 天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、中国攻めから引き返して尼崎に到着した羽柴秀吉と合流した恒興は、秀吉の甥・秀次を恒興の婿に、輝政を秀吉の養子とすることを約束した。京都大徳寺での信長の葬儀では、輝政は羽柴秀勝と共に棺を担いだ。天正11年(1583年)、父が美濃国大垣城主となると、自らは池尻城主となった。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおいて、父の恒興と兄の元助が討死したため、家督を相続し、美濃大垣城主13万石を領した。天正13年(1585年)、同じ13万石で岐阜城主となる。 天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置には2,800の兵を率いて参加した。そのため戦後の同年9月、三河国の内、渥美・宝飯・八名・設楽4郡(東三河)において15万2,000石に加増され、吉田城主となった。 文禄3年(1594年)、秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶る。輝政の正室・糸姫は利隆を出産した際、出血が止まらずそれがもとで病気になり実家に帰ったとされる。中川家とはその後も関係が良好で、関ヶ原の戦いの前に糸姫の弟の中川秀成は輝政の仲介で家康に忠誠を誓った。 文禄4年(1595年)、関白・秀次の失脚時、その妻妾の多くが殺害されたものの、輝政の妹・若政所(秀次の正室)は例外的に助命されており、特別丁重に扱われている。豊臣時代、輝政は豊臣一族に準じて遇されていた。 慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に接近した。また、福島正則や加藤清正ら武断派の諸将らと共に行動し、文治派の石田三成らと対立した。慶長4年(1599年)閏3月3日、武断派と文治派の仲裁をしていた前田利家が死去すると、七将の一人として福島正則,加藤清正,加藤嘉明,浅野幸長,黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こした。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加しており、岐阜周辺から西美濃一帯の村や寺院には、輝政が出した禁制が多数残されている。禁制を大量発給し広域的に人々の安全を保証することで占領・支配の円滑化を図っており、地域社会も一斉にそれになびいた様子が窺える。本戦では毛利秀元や吉川広家ら南宮山の西軍の抑えを務めており、直接の戦闘はなかった。 慶長6年(1601年)2月8日、徳川秀忠が輝政邸を訪れたが、これは関ヶ原以後初めての外様大名の屋敷への御成であったとされる。 戦後、これらの功績により37万石を加増されて52万石となり、播磨国姫路に加増移封され、初代姫路藩主となった。ここに輝政は国持大名としての政治的地位を獲得したのであり、その知行方は当時でも8番目に高いものであった。12月には従四位下・右近衛権少将に叙任された。関ヶ原合戦以後における徳川氏一門以外の大名における少将以上の任官は、前年3月における福島正則に次いでのものであり、初期徳川政権における両者の政治的役割の高さを示すものといえる。 慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて、姫路城を大規模に改修する。また、諸大名らと共に、慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事し、篠山城普請では総普請奉行を務めた。 慶長16年(1611年)3月、二条城における家康と豊臣秀頼との会見に同席した。慶長17年(1612年)8月、正三位参議に叙任、松平姓を与えられ、「松平播磨宰相」と称された。徳川政権下において、徳川一門以外の大名で参議に任官されたのは輝政が最初である。また、5男・忠継の備前国岡山藩28万石、6男・忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟・長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。徳川家との縁組は家格を大いに引き上げ、明治維新に至るまで池田家が繁栄する基盤となった。 慶長17年(1612年)1月、輝政は中風に罹ったが8月には回復し駿府・江戸を訪れた。23日に秀忠に拝謁した際、松平氏を賜り参議に奏請された。参議に任じられたことを謝するため、10月17日に参内し、その後播磨へと帰国した。 慶長18年(1613年)1月25日、死去。50歳。死因は中風。なお、輝政が中風を患ったと本多正純から事情を聴いた家康は、中風の薬として烏犀円を遣わしている。豊臣秀頼の重臣らが輝政の死を聞いて愕然として「輝政は大坂の押へなり。輝政世にあらん限りは、関東より気遣ひなく、秀頼公の御身の上無事成るべし。輝政卒去の上は大坂は急に亡さるべし」と語ったという逸話がある。
|
慶長10年(1605年)、播磨姫路藩主・池田輝政の5男として姫路城で生まれる。母は徳川家康の次女・督姫であるから、家康の外孫に当たる。そのため、慶長16年(1611年)には家康から松平姓を下賜された。元和元年(1615年)、備前岡山藩主だった兄の池田忠継が死去すると、その遺領から赤穂郡3万5,000石を分与されて、赤穂藩を立藩した。 元和9年(1623年)7月19日に従五位下・右京大夫に叙任する。寛永3年(1626年)には従四位下に昇進する。藩政においても藩の基礎を固めるなど、若くして手腕を見せていたが、元和4年(1618年)には本多忠政の家臣・稲垣平馬事件も起こるなど、世情不安の中で寛永8年(1631年)7月29日に死去した。享年27。 継嗣がいなかったため、赤穂藩は一旦は無嗣改易となるが、弟の輝興が家督を継ぐことを許された。
|