<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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池田忠継 池田忠雄

 慶長4年(1599年)2月18日、伏見で生まれる。徳川家康の外孫にあたるため、岡山藩を領した小早川秀秋が無嗣断絶により改易されると、慶長8年(1603年)に、わずか5歳で備前岡山28万石に封じられた。異母兄の利隆が執政代行として岡山城に入り、忠継は父の姫路城に留まった。
 慶長19年(1614年)、父の死後、16歳で初のお国入りをし、父の遺領のうち、母・良正院の化粧料の西播磨10万石を分与され、計38万石を領した。そして兄の利隆と共に大坂冬の陣では徳川方として参戦したが、帰城後に発病して、翌慶長20年(1615年)に岡山城で死去した。享年17。森忠政の娘と婚約していたが、婚姻前に死去したため嗣子はなく、同母弟の忠雄が跡を継いだ。なお、忠継兄弟の系統は、忠雄の嫡男・光仲の時に因幡鳥取藩に転封となり、幕末まで続いた。
 墓所(廟)は清泰院にあり、木像と位牌が安置され、遺体は廟の下に木棺の中に胡座姿で埋葬された。なお、清泰院は当初岡山県岡山市中区小橋にあったが、1964年(昭和39年)に国道橋建設のために岡山市南区浦安本町に移転し、それに伴い廟も1978年(昭和53年)に当地に移転した。岡山県指定重要文化財。
 忠継の早世には、以下のような伝説が残っている。
 忠継の母・督姫が実子である忠継を姫路城主にすべく、継子で姫路城主であった利隆の暗殺を企て、岡山城中で利隆が忠継に対面した際、饅頭に毒を盛って利隆に勧めようとした。女中が手のひらに「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけなかったが、これを察知した忠継は利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、死亡した。こうして身をもって長兄で正嫡の利隆を守ったという。また、督姫もこれを恥じて毒入りの饅頭を食べて死亡したとされる。史実としては忠継は、前述の通り慶長20年(1615年)2月23日に岡山城内で死去しており、督姫は同年2月4日に二条城内で死去し、京都・知恩院に埋葬されている。また、1978年(昭和53年)に忠継廟の移転の際に発掘調査が行われ、その際に毒死疑惑検証のため遺体の調査が行われた。その結果でも毒死の証拠は得られなかった。 

 慶長7年(1602年)10月28日、姫路城で生まれる。慶長13年(1608年)、7歳で元服する。徳川家康の外孫に当たることから慶長15年(1610年)、9歳で淡路洲本城に6万石の所領を与えられたが、父の姫路城に留まり、重臣が政務にあたった。
 慶長19年(1614年)、大坂の陣に出陣。序盤の木津川口の戦いで出陣を命じられるなど、ある程度の重用を受けている。配下の横川重陳は、徳川家康から一番槍の感状を得ている。
 元和元年(1615年)、岡山藩主である同母兄・忠継が17歳で早世したため、その跡を継いだ。洲本藩は廃藩とされ、淡路一国は徳島藩の蜂須賀至鎮にあたえられた。岡山城に入ることとなった忠雄は遺領38万石のうち、忠継が相続した母・督姫の化粧料10万石より同母弟・輝澄(山崎藩3万8,000石)や政綱(赤穂藩3万5,000石),輝興(平福藩2万5,000石)らにそれぞれ分与したため、忠雄の領地は31万5,200石となった。
 入封後は岡山城の拡張工事や城下町の整備,新田開発や治水工事に努めた他、元和6年(1620年)から始まった天下普請による大坂城改築工事に参加させられ、自らの担当場所に蛸石,肥後石,振袖石というそれぞれ大坂城内で第1位から第3位となる巨石をはじめ、その他様々な巨石を運び込んだ。そしてこの大坂城での工事を岡山城の改修工事にも生かし、現存する月見櫓近辺の石垣などを打ち込み接ぎで築き、天端石には石狭間を設置した。
 寛永7年(1630年)7月11日、寵愛する小姓の渡辺源太夫が藩士・河合又五郎に殺害されるという事件が起こり(鍵屋の辻の決闘)、脱藩した又五郎をかくまった旗本・安藤正珍と岡山藩池田家との争いに発展した。寛永9年(1632年)、又五郎誅殺を願いつつ、31歳で死去した。死因は天然痘だが、毒殺されたという説もある。死後、家督は長男の光仲が継いだが、幼少だったため因幡鳥取藩に移封された。墓所は清泰院である。当初、岡山県岡山市中区小橋にあったが、昭和39年(1964年)に国道橋建設のために岡山市南区浦安本町に移転した。
 備前1国と備中4郡を領した忠雄は、岡山城の城郭の整備、城下町の拡張整備にあたった。岡山城については、大手門を改築し、高麗門を構えて石垣で枡形をつくり、石垣を南北にまたいで西面する渡櫓門を建て、枡形門をつくった。また、大砲に対する防衛のため、本丸書院の段の北西角に望楼と武器庫を兼ねた月見櫓を新設し、付近に火薬庫と火縄銃用の石狭間をも設け、防備を固めた。城下町については、旭川の用水路である西川の開削が代表的で、この西川を城下と農村の境界とした。

池田光仲 池田清定

 寛永7年(1630年)6月18日、岡山藩主・池田忠雄の長男として岡山藩江戸藩邸で生まれる。母は徳島藩主・蜂須賀至鎮の娘・三保姫。
 寛永9年(1632年)、父・忠雄が死去し、わずか3歳で家督を継ぐこととなった。幼少のため山陽道の要所備前岡山を治め難いとされたが、徳川家康の曽孫兼来孫ということもあり改易とはならず、光仲は因幡・伯耆を有する鳥取藩32万石に、従兄で鳥取藩主となっていた池田光政が備前岡山藩31万5,000石へ国替えとなった。この際に、叔父の池田輝澄(播磨国山崎藩主)、輝興(播磨国赤穂藩主)、さらに光政が後見人として充てられた。幼少のために江戸藩邸に在住し、領国経営は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられた。光仲が領国に初入国したのは慶安元年(1648年)、藩主となって16年を経てからである。
 寛永15年(1638年)、江戸城にて第3代将軍・徳川家光の前で元服し、偏諱を受け光仲と名乗った。正保2年(1645年)幕府の斡旋で紀州藩主・徳川頼宣の長女・茶々姫と結婚した。以後、因州池田家と紀州徳川家との姻戚関係が継続した。
 初入国以後は領国経営に心血を注いだ。慶安元年(1649年)12月、幕府に東照宮勧進を出願し、慶安3年(1650年)鳥取東照宮が完成した。承応元年(1652年)には藩の実力者で米子城代・筆頭家老の荒尾成利に責問十余条を突き付けて罷免し、藩主の権力を強化した。
 貞享2年(1685年)、長男・綱清に家督を譲り隠居した。しかしなお藩政への情熱は衰えず、綱清を後見した。同年、次男・壱岐守仲澄に新田2万5,000石(のち3万石)を分与し、鹿奴藩(鳥取東館新田藩)が成立した。
 元禄6年(1693年)7月7日、脳卒中のため鳥取城にて死去した。享年64。因幡国法美郡奥谷村に埋葬され、以後ここが鳥取藩主池田家墓所となった。没翌年の元禄7年(1694年)に黄檗宗の龍峯山興禅寺が池田家菩提寺となった。 

 因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)の初代藩主。天和3年(1683年)7月1日、因幡鳥取藩の初代藩主・池田光仲の5男として鳥取城で生まれる。元服時に、父の跡を継いで第2代藩主となっていた長兄の池田綱清から偏諱の授与を受けて清定と名乗る。元禄13年(1700年)5月25日に綱清が隠居したとき、1万5000石を分与されて若桜藩を立藩した。元禄14年(1701年)12月18日、従五位下・河内守に叙位・任官する。宝永6年(1709年)4月11日に松平姓を許された。
 幕命により江戸城日比谷門番,常盤橋門番,呉服橋門番などを歴任する。享保元年(1716年)、5000石を加増されて2万石の大名となった(一説に加増は死後の享保5年(1720年)とも)。
 享保3年(1718年)9月9日に江戸で死去。享年36。跡を甥で養子の定賢が継いだ。
 学問藩主であったといわれる。度量も広く、あるとき家臣が鷹狩りに行きましょうと提言したとき、鷹狩りは遊びではなく民情や地理を知るためのものであり、またそのために民衆の負担もかかるものであるので、領土も人民も持っていない自分が(若桜藩は鳥取藩からの蔵米支給であり、領地はなかった)「有土の者」のようなことをすべきではないと答えた逸話がある。

池田定賢 池田定常

 元禄13年(1700年)7月16日、初代藩主・池田清定の兄に当たる鹿奴藩の初代藩主・池田仲澄の4男として鳥取で生まれる。同年12月、生後5か月の時に家老・池田知定(下池池田家)の養子となった。享保2年(1717年)に元服したが、享保3年(1718年)に叔父の清定が死去すると、その養子として家督を継ぐこととなり、松平姓を称した。12月18日に従五位下・近江守に叙位・任官する。
 享保11年(1726年)5月に駿府加番に任じられる。その後も江戸城御門番などを歴任した。元文元年(1736年)9月7日、江戸で死去した。享年37。跡を長男の定就が継いだ。
 定賢は育ての父である池田知定を実父のように慕い、若桜藩の清定の養子になった後もその情は変わらず、家臣に内緒で、あるいは理由をつけて外に出ては、知定の墓所である広徳寺を生涯にわたって墓参に訪れたという。

 松平冠山と呼ばれることもある。1000石の旗本・池田政勝の次男として誕生した。安永2年(1773年)、先代の若桜藩主・池田定得が嗣子無くして病死し、定得は遺言として、旗本の池田政勝の子・定常を跡継ぎに指名していたため、それに従って定常が家督を継ぐこととなった。
 定常は謹厳実直で聡明だったため、小大名ながら諸大名からその存在を知られた。また、教養や文学においても深い造詣を示し、佐藤一斎や谷文晁,塙保己一,林述斎らと深く交流した。そのため、毛利高標(佐伯藩)や市橋長昭(近江国仁正寺藩)らと共に「柳の間の三学者」とまで呼ばれた。享和2年(1802年)11月、家督を長男・定興に譲って隠居した。隠居後も学者や文学者と交流し、著作活動や研究に力を注いでいる。
 定常は政治家としても有能であるが、どちらかというと文学者として高く評価されている。定常の著作である『論語説』や『周易管穂』、『武蔵名所考』や『浅草寺志』は、当時の儒学や古典・地理などを知る上で貴重な史料と高い評価を受けている。寛政8年から翌9年に記した巡見日記が『駿河めぐり』として翻刻されている。文政6年には、自らの前世を語った勝五郎という農民の少年の元を訪れ『児子再生前世話』(勝五郎再生前生話)を記した。
 天保4年(1833年】7月13日に死去。享年67。墓所は東京都墨田区の弘福寺,鳥取県鳥取市国府町奥谷の鳥取藩主池田家墓所。 

池田徳定

 因幡若桜藩(鳥取西館新田藩)の最後の藩主、華族(子爵)。嘉永元年(1848年)11月25日、第8代藩主・池田清直の兄・池田仲諟の次男として生まれる。文久2年(1862年)に兄で第9代藩主の清緝が死去したため、その養子として家督を継ぎ、徳風と改名する。のち、さらに徳定と改名した。「徳」の字は、義父でもある本家の鳥取藩主・池田慶徳からの偏諱、「定」の字は7代藩主・定保まで用いられていた通字である。
 幕末期は佐幕派として御所警備を務め、義父・慶徳の補佐に努め、元治元年(1864年)の禁門の変では慶徳の名代として軍を率いて上洛し、禁門の変にも参加した。
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、鳥取藩とともに新政府側に与して伊勢桑名藩と戦った。明治元年(1868年)12月10日、藩名を若桜藩と改名する。明治2年(1869年)6月、戊辰戦争の恩賞として6000両を与えられた。
 明治3年(1870年)3月、鳥取藩に合併されて若桜藩は廃藩となった。明治17年(1884年)、華族令により子爵に叙せられる。明治43年(1910年)6月21日に死去した。享年63。