<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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池田綱清 池田吉泰

 江戸の鳥取藩藩邸で生まれる。明暦3年(1657年)、第4代将軍・徳川家綱に御目見し、寛文元年(1661年)には将軍の面前で元服を行い、そして家綱の偏諱を受けて綱清に改名。従四位下を叙任。寛文10年(1670年)、正室・式姫と婚姻する。
 貞享2年(1685年)、39歳で家督を相続する。しかし病弱であったため、父の光仲が後見人として政務を補助した。元禄6年(1693年)、光仲が死去した後は家老ら重臣の補佐を受けたため、光仲が心血を注いだ藩主親政は早くも崩れ、家臣団へ権力が移り、藩政の混乱を招くようになった。
 綱清には子がいなかったため、元禄8年(1695年)、鹿奴藩(鳥取東館新田藩)の初代藩主である弟・仲澄の長男だった長吉(のち輝清,吉泰と改名)を養嗣子に迎える。元禄13年(1700年)に綱清は病気を理由に隠居し、吉泰に家督を譲った。同年、弟の清定に1万5,000石を与え、若桜藩(西館)を立てた。
 正徳元年(1711年)7月4日に死去した。綱清の墓は鳥取藩主池田家墓所にある。なお、他の藩主の墓碑は亀趺の上に載っているが、徳川綱吉の「生類憐れみの令」に配慮し亀趺が無い。菩提寺は龍峯山興禅寺。

 貞享4年(1687年)、池田仲澄の長男として東館の江戸邸で生まれた。元禄8年(1695年)、9歳のとき、鳥取藩2代藩主・池田綱清の養子となる。綱清より「清」の字とその初名から「輝」の字を与えられて輝清と名乗る。元禄13年(1700年)、14歳で綱清より家督を譲られる。従四位下侍従に叙任され、右衛門督と称した。同年、5代将軍・徳川綱吉の面前で元服、綱吉の偏諱を受け吉明(のち吉泰)に改名。宝永5年(1708年)、前田綱紀の5女・敬姫(宝林院)と婚姻。
 藩政では度重なる災害に見舞われ、世情不安から藩の風紀が乱れた。このため、たびたび綱紀粛正令や倹約令が出された。吉泰は倹約令を出す一方で、自身は能が趣味で参勤交代の途中などで気に入った能面を買い求め、その数は約800面におよんだ。これは当時の将軍家が所蔵する能面の数よりも多かったと伝えられている。
 元文4年(1739年)7月23日に53歳で死去。墓地は鳥取藩主池田家墓所。菩提寺は龍峯山興禅寺。側室の横尾氏との間に生まれた亀姫は、吉泰の墓前に吉泰正室・敬姫と並んで墓碑がある。

池田重寛 池田治道

 江戸藩邸で生まれる。延享4年(1747年)に父・宗泰が死去した時、勝五郎はわずか2歳であったため、家臣団は若桜藩3代藩主・池田定就に相続させ、勝五郎をその養嗣子とすることを幕府に願い出た。しかし、幕府は生母・桂香院の実家が紀州徳川家で、初代鳥取藩主・池田光仲が幼少で家督相続をしていることを理由に勝五郎の相続を認めた(勝五郎はやがて仲繆と名乗るが、「仲」の字は光仲に由来している)。
 宝暦7年(1757年)、藩校・尚徳舘を開いた。宝暦8年(1758年)、琴姫(紀州藩7代藩主・徳川宗将の2女)と婚約する。しかし、琴姫は同年に死去した。宝暦9年(1759年)、9代将軍・徳川家重の面前で元服、家重の偏諱を受け重繆(のち重寛)に改名。従四位下を叙任する。
 幼少で藩主となったため、母・桂香院が後見し藩政を運営した。重寛が長じて後も桂香院は藩政への影響を保ち続けた。明和3年(1766年)、正室・律姫と婚姻する。律姫は同年、鳥取藩江戸藩邸で死去した。のち、継室に仲姫を迎える。明和8年(1771年)、3男・澄時が支藩の鹿奴藩6代藩主を継ぐ。天明元年(1781年)、長男・治恕が早世する。
 天明3年(1783年)10月12日に死去。享年38。家督を次男・治道が継いだ。墓地は鳥取藩主池田家墓所。菩提寺は龍峯山興禅寺。
 重寛死後の天明5年(1785年)には、4男・澄教が澄時の死去に伴い鹿奴藩7代藩主(仲雅と改名)となった。

 

 江戸藩邸で生まれる。庶出であったために誕生当初はその出生は秘匿されていたという。安永7年(1778年)、重寛の正室・仲姫(御三卿・田安宗武の4女)の預かりとなり仲姫が養育する。継母の仲姫、祖母・桂香院の影響を受けて育つ。天明元年(1781年)、長兄で世嗣の治恕が江戸藩邸で死去し、天明2年(1782年)に藩主世嗣となる。この時、治道は15歳であったが、父・重寬も既に健康状態が危惧されていたため、幕府には17歳と偽って届け出た(幼少での相続を理由に幕府が介入することを恐れたためと言われる)。
 天明3年(1783年)に父・重寛が死去し、家督を相続する。翌天明4年(1784年)、10代将軍・徳川家治の面前で元服、家治の偏諱を受け治道と名乗る。従四位下に叙される。寛政2年(1790年)3月26日、正室・生姫と婚姻する。寛政4年(1792年)、生姫は初産で一女を産んだ後、体調が回復せず鳥取藩江戸藩邸で死去した。この長女・弥姫は薩摩藩主・島津斉興の正室となり島津斉彬の生母となった。寛政5年(1793年)11月15日、継室として丞姫を迎えた。
 生姫の死去した寛政4年(1792年)、家督の相続をめぐって事件が起きた。治道の男児には、鳥取城で生まれた長男・銀之進(後の昭邦・斉邦)と江戸藩邸で生まれた次男の永之進(後の道稷・斉稷)があった。江戸では永之進を推す声が強く、国許との間に対立が起きた。治道が国許に帰国した際、家臣の佐々木磯右衛門は銀之進を世嗣とするよう諌言した。これに怒った治道は磯右衛門の頭を竹扇で打った。磯右衛門は帰宅するとその晩、2人の息子と切腹した。この事件を機に、治道は銀之進を世嗣とした。ただ、磯右衛門に対する行動や、永之進に「道」の字を与えて道稷と名乗らせていることから、銀之進を世嗣と決定したのも本意ではなく、治道自身も永之進を跡目にと期待し、世嗣決定後も永之進を偏愛していたことがうかがえる。なお、銀之進(斉邦)は治道の死後、元服前に家督を相続するも早世して男子もなかったため、結果的に永之進(斉稷)が1代置いて家督を相続している。
 治道の時代は幕府の手伝い普請,天災などで藩財政が窮乏した。賢臣に恵まれ藩政改革を断行したが、なかなか財政再建までは至らなかった。文武を奨励し、学問も盛んになった。
 寛政10年(1798年)5月6日に死去。享年31。墓地は鳥取藩主池田家墓所。菩提寺は龍峯山興禅寺。

池田斉稷 池田慶徳

 天明8年(1788年)、江戸藩邸で生まれる。父・治道の正室・生姫(伊達重村の娘)が寛政4年(1792年)に死去すると、一部の家臣によって1歳違いの異母兄・銀之進(斉邦)の対抗馬として推される。江戸でも治道の跡取りに永之進を推す声が高く、国許との間に対立が起きた。銀之進を世嗣に推す藩士の佐々木磯右衛門が治道の怒りを被ったことから見ると、父からも跡継ぎに期待されていたものとみられる。結果、磯右衛門が諌死したことにより兄が嫡男となったが、父からは気に入られていたのか、のちに父から偏諱を与えられて道稷と名乗っている。
 寛政10年(1798年)に父が亡くなり、兄・昭邦(のち斉邦)が家督を継いだが、文化4年(1807年)に嗣子なくして亡くなったため、道稷が家督を相続する。兄同様、11代将軍・徳川家斉の面前で元服、家斉の偏諱を受け斉稷に改名、従四位下を叙任する。斉稷は歴代藩主で初めて因幡守を名乗った。文化10年(1813年)、正室・演姫と婚姻した。
 子沢山の家斉は主だった諸大名に自身の子を養子として出しており、文化14年(1817年)に鳥取藩も13男の乙五郎を婿養子(養嗣子)として迎えた。これにより、斉稷は従四位上を叙任した。文政2年(1819年)、左近衛中将となり、葵紋を下賜される。江戸城伺候席も大広間から大廊下下に昇進した。文政7年(1824年)、養嗣子の乙五郎が父・家斉の面前で元服、家斉の偏諱を受け斉衆と名乗り、従四位上・侍従を叙任した。文政9年(1826年)、斉衆は疱瘡のために死去した。これにより斉稷の実子(次男)の誠之進(のちの斉訓)が世嗣となった。
 文政13年(1830年)5月2日に江戸屋敷で死去。享年43。家督を斉訓が継いだ。遺命により江戸の弘福寺に埋葬され、鳥取藩主池田家墓所に遺髪が葬られた。のち、関東大震災を機に昭和5年(1930年)、鳥取藩主池田家墓所に改葬された。
 鳥取藩ではそれまで池田輝政の血筋を守ってきたが、斉稷の代になり将軍家より嗣子を入れたため、その後、他家からの養子を迎える発端となった。

 

 水戸藩主・徳川斉昭の5男(庶子)で、母は側室の松波春子。元服して父・斉昭より偏諱を受け昭徳と名乗る。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。
 嘉永3年10月29日(1850年12月2日)、鳥取藩主・池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。将軍・徳川家慶より偏諱を受けて慶徳に改名、松平相模守を称した。家督を継ぐと藩政改革に着手し、藩校尚徳館を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に水戸学が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。嘉永6年(1853年)に、江戸桶町千葉道場を開いた千葉定吉を剣術師範として召し抱えている。
 文久2年(1862年)4月に薩摩藩主の島津久光が藩兵を率いて上洛し、朝幕間の周旋に乗り出す。これを機に鳥取藩でも慶徳の国事周旋を推進しようとする声が尚徳館教授方を中心に上がったが、慶徳にその気はなく、藩主側近の保守派は周旋方(推進派)に取り合わなかった。しかし、同年7月に長州藩主・毛利慶親,土佐藩主・山内豊範が相次いで入洛し、京都で尊王攘夷の機運が高まるとの報に接すると、国事周旋に乗り出す決意を固める。
 9月に朝廷が幕府に攘夷を促すための勅使派遣を決定すると、幕府の優柔を懸念した慶徳は10月15日に入洛して国事周旋の勅諚を受け、20日には敬親,豊範に続いて参内を果たした。そして東下周旋の命を受け、11月5日に江戸に着くと政事総裁職の松平春嶽や山内容堂,松平容保らと会談を重ねた。さらに、奉勅攘夷と決した幕議に対し、異議を唱えて将軍後見職辞任を表明し登城を拒否していた異母弟の一橋慶喜の説得にあたった。
 勅使を迎えた将軍・徳川家茂が攘夷の勅諚を奉じ、その方策は翌春上洛して協議すると決したのを見届けると、慶徳は12月に再び入洛し、攘夷は幕府に一任して外藩は退京させるよう朝廷に働きかけた。明けて文久3年(1863年)正月には、攘夷期限を決定し、それまでに早急な武備充実に努め幕府主導で挙国一致体制を整えるよう幕府に建白する。3月16日、慶徳は大坂湾や藩地の沿岸警衛策を講じるため帰国の途に就いた。この年から翌年にかけ、鳥取藩では沿岸9カ所の要地に西洋式の台場が築造された。
 過激尊攘派から期限決定を迫られ続けた幕府は、4月23日に至り「攘夷の儀、五月十日拒絶に及ぶべき」と布告したが、期限前日の5月9日に生麦事件の償金を横浜の英国公使に支払い、慶徳を憤慨させた。実兄の水戸藩主・徳川慶篤も償金支払いの経緯に関わっていたと伝えられ、水戸に連なる慶徳の立場を苦しいものにした。挽回のため攘夷路線の強化を求める周旋方と慎重論を唱える保守派の確執も激しくなっていく中、大坂の天保山を守備していた鳥取藩は6月に大坂湾に進入した英国船を砲撃した(命中せず、英国船は無事脱出)。
 幕府と朝廷から上洛を求められた慶徳は、6月27日に本圀寺に入った。この時期、幕府の穏便な姿勢に対抗し日本全体での攘夷戦争遂行を望む長州藩が、攘夷親征を天下に号令するよう朝廷に働きかけていた。そして、7月に入洛した阿波藩世子の蜂須賀茂韶および 同母弟の岡山藩主・池田茂政、4月来在洛中の米沢藩主・上杉斉憲と連携し、攘夷親征派に対抗する在洛諸侯集団を形成した。慶徳の論は従兄の右大臣・二条斉敬ら朝廷首脳の支持を得、諸侯集団は朝議への参与を許されるまでになる。
 しかし、攘夷親征派の勢いは強く、親征派の圧力に屈した天皇は攘夷親征を決定した。このとき、在京兵力の少ない薩摩藩は会津藩を引き込み、攘夷親征派への対抗クーデターを画策する。8月18日、クーデターが決行されると阿波・岡山・鳥取・米沢も会津に次ぐ兵力を動員し、三条実美ら親征派の公家や長州の勢力を朝廷から一掃した(八月十八日の政変)。
 この政変の前日には、京都留守居役・河田左久馬ら22名の鳥取藩士が「主君の勤王の志を妨げ、天下の汚名を蒙らせた」として慶徳側近の黒部権之助,高沢省己,早川卓之丞の3名を本圀寺において惨殺し、斬奸状で名指しされたもう一人の加藤十次郎も翌日自害するという事件が起こった(本圀寺事件)。尊攘派へ傾倒した河田らは、長州を支援する意見などを持っており、親征阻止に動く自藩の姿勢に憤った結果だった。
 政変に参加し成功させた慶徳らだったが、長州に対しては寛大な処置を求めた。やがて、尊攘激派の没落によって開国論を明確にした薩摩の島津久光や越前の松平春嶽ら開明派諸侯が再び上洛に動き出すと、これに対抗しえないと見た慶徳ら在洛諸侯は相次いで帰国していった。その後、慶喜が横浜鎖港を主張して鎖港に否定的な久光,春嶽らに対抗し、孝明天皇の信任を得て一会桑体制を構築したが、慶喜の期待にもかかわらず慶徳,茂政兄弟が再び自ら京都政局に乗り出すことはなかった。
 慶応4年2月3日(1868年2月25日)、慶徳は新政府の議定に就任する。翌明治2年2月3日(1869年3月15日)、従二位・権中納言に叙される。5月15日(新暦6月24日)、議定から麝香間祗候に移る。また、戊辰戦争では東北地方に出兵している。6月2日、戊辰戦争の戦功賞典として3万石を賜った。6月19日、版籍奉還により鳥取藩知事に就任した。
 鳥取藩の財政難などのこともあり、知藩事の立場にありながら廃藩置県を自ら明治政府に提案した。明治7年(1874年)7月14日、廃藩置県により免職となった。明治8年(1875年)5月27日に隠居し、次男の輝知に家督を譲った。
 明治10年(1877年)8月2日、肺炎のため神戸で死去。8月18日、正二位を追贈された。墓所は弘福寺、大正14年(1925年)に多磨霊園、平成15年(2003年)に鳥取市内の大雲院に移転改葬された。明治40年(1907年)5月10日、特旨をもって位階追昇された。贈従一位。

池田仲博

 1877年(明治10年)8月28日、徳川慶喜の5男として生まれる。初名は博。佐野源次郎方へ預けられる。1880年(明治13年)9月、徳川邸に戻る。1887年(明治20年)3月に兄・厚とともに静岡から東京に移り、4月に学習院に入学した。1890年(明治23年)2月25日、従兄にあたる侯爵・池田輝知が嗣子なくして死去したのに伴い、その次女・亨子と結婚し婿養子として池田侯爵家を相続・襲爵した。同年4月11日、輝博と改名する。1894年(明治27年)1月25日、明治天皇の5男の輝仁親王と1字が重なることから、鳥取藩初代藩主・池田光仲の一字を加えて仲博に改名する。
 1896年(明治29年)5月、同族の子爵・池田源とともに北海道の十勝地方の中川郡におよそ300万坪の原野の貸付を得て、池田農場を開設した。同年に学習院初等科を卒業、さらに1898年(明治31年)11月25日に陸軍士官学校(10期)を卒業、翌1899年(明治32年)6月27日には陸軍歩兵少尉に任官。第一師管軍法会議判士,陸軍幼年学校生徒隊中隊付などを歴任した。1909年(明治42年)9月30日、予備役に編入された。
 1902年(明治35年)7月28日から貴族院議員(侯爵議員)を務め、火曜会に属した。
 1907年(明治40年)、仲博は当時の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰行啓時の宿泊施設として鳥取城跡の扇御殿跡に自身の別邸を建てた。これが「仁風閣」で、その館名は、この行啓に随行した元帥海軍大将・東郷平八郎が命名による。
 1910年頃に俳句をやり高浜虚子の指導を受け、父・慶喜と虚子を引き合わせたこともある。
 1946年(昭和21年)4月12日、貴族院議員を辞職。同年、公職追放となる。1947年(昭和22年)5月3日、華族制度の廃止により失爵した。1948年(昭和23年)1月1日に逝去。墓所は、元は東京の多磨霊園にあったが、2003年(平成15年)に鳥取市の大雲院へ改葬された。