KI15:池田忠継 | 池田維実 ― 池田奉永 ― 池田奉忠 ― 池田教正 ― 池田信輝 ― 池田輝政 ― 池田忠継 ― 池田綱清 | KI16:池田綱清 | ● |
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池田綱清 | 池田吉泰 |
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江戸の鳥取藩藩邸で生まれる。明暦3年(1657年)、第4代将軍・徳川家綱に御目見し、寛文元年(1661年)には将軍の面前で元服を行い、そして家綱の偏諱を受けて綱清に改名。従四位下を叙任。寛文10年(1670年)、正室・式姫と婚姻する。 |
貞享4年(1687年)、池田仲澄の長男として東館の江戸邸で生まれた。元禄8年(1695年)、9歳のとき、鳥取藩2代藩主・池田綱清の養子となる。綱清より「清」の字とその初名から「輝」の字を与えられて輝清と名乗る。元禄13年(1700年)、14歳で綱清より家督を譲られる。従四位下侍従に叙任され、右衛門督と称した。同年、5代将軍・徳川綱吉の面前で元服、綱吉の偏諱を受け吉明(のち吉泰)に改名。宝永5年(1708年)、前田綱紀の5女・敬姫(宝林院)と婚姻。 |
池田重寛 | 池田治道 |
江戸藩邸で生まれる。延享4年(1747年)に父・宗泰が死去した時、勝五郎はわずか2歳であったため、家臣団は若桜藩3代藩主・池田定就に相続させ、勝五郎をその養嗣子とすることを幕府に願い出た。しかし、幕府は生母・桂香院の実家が紀州徳川家で、初代鳥取藩主・池田光仲が幼少で家督相続をしていることを理由に勝五郎の相続を認めた(勝五郎はやがて仲繆と名乗るが、「仲」の字は光仲に由来している)。
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江戸藩邸で生まれる。庶出であったために誕生当初はその出生は秘匿されていたという。安永7年(1778年)、重寛の正室・仲姫(御三卿・田安宗武の4女)の預かりとなり仲姫が養育する。継母の仲姫、祖母・桂香院の影響を受けて育つ。天明元年(1781年)、長兄で世嗣の治恕が江戸藩邸で死去し、天明2年(1782年)に藩主世嗣となる。この時、治道は15歳であったが、父・重寬も既に健康状態が危惧されていたため、幕府には17歳と偽って届け出た(幼少での相続を理由に幕府が介入することを恐れたためと言われる)。 |
池田斉稷 | 池田慶徳 |
天明8年(1788年)、江戸藩邸で生まれる。父・治道の正室・生姫(伊達重村の娘)が寛政4年(1792年)に死去すると、一部の家臣によって1歳違いの異母兄・銀之進(斉邦)の対抗馬として推される。江戸でも治道の跡取りに永之進を推す声が高く、国許との間に対立が起きた。銀之進を世嗣に推す藩士の佐々木磯右衛門が治道の怒りを被ったことから見ると、父からも跡継ぎに期待されていたものとみられる。結果、磯右衛門が諌死したことにより兄が嫡男となったが、父からは気に入られていたのか、のちに父から偏諱を与えられて道稷と名乗っている。
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水戸藩主・徳川斉昭の5男(庶子)で、母は側室の松波春子。元服して父・斉昭より偏諱を受け昭徳と名乗る。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。 |
池田仲博 | |
1877年(明治10年)8月28日、徳川慶喜の5男として生まれる。初名は博。佐野源次郎方へ預けられる。1880年(明治13年)9月、徳川邸に戻る。1887年(明治20年)3月に兄・厚とともに静岡から東京に移り、4月に学習院に入学した。1890年(明治23年)2月25日、従兄にあたる侯爵・池田輝知が嗣子なくして死去したのに伴い、その次女・亨子と結婚し婿養子として池田侯爵家を相続・襲爵した。同年4月11日、輝博と改名する。1894年(明治27年)1月25日、明治天皇の5男の輝仁親王と1字が重なることから、鳥取藩初代藩主・池田光仲の一字を加えて仲博に改名する。 |