<神皇系氏族>天孫系

YG02:柳生家厳  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 柳生永家 ― 柳生家厳 ― 柳生宗矩 YG03:柳生宗矩

リンク YG04
柳生宗矩 柳生三厳

 若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている。文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父・宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる。
  豊臣秀吉の死後、家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年)に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。その道中、下野国小山に至って三成ら西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2,000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年)には後の2代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1,000石加増、合わせて3,000石の大身旗本となった。慶長20年(1615年)の大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀「大天狗正家」で瞬く間に倒したという。 なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
  大坂の陣の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に直盛を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡に雀」に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠を加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子・平四郎を引き取って200石を与えて大和に住まわせ、2人の家臣を引き取り、その内1人には200石を与えている。
  元和7年(1621年)3月21日、後の3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、新陰流を伝授する。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年)10月3日には、3,000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)8月14日の4,000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年)9月13日、500石の加増。続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分2,000石の加増もあり、所領は1万2,500石に達した。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である。また、友人の沢庵宗彭を家光に推挙したのも、この頃のことである。
  晩年は故郷である柳生庄に戻ることもあり、その際、陣屋に家臣や近隣の住人らを招き、申楽・闘鶏に興じるなどしていたという。正保3年(1646年)江戸麻布日が窪にある自邸で病む。同年3月20日、病が重い事を聞いた家光が見舞いに訪れ、病床の宗矩に新陰の奥義を尋ね、望みがあれば申し出るよう命じた。3月26日、死没。享年76。遺言によって武州端芝で火葬の上、豊島郡下練馬の圓満山廣徳寺に葬られた。その他、友人の沢庵宗彭を招いて開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。また、鍋島元茂,鍋島直能により、現在の佐賀県小城市にある岡山神社内の玉成社に祀られてもいる。同年4月、その死を惜しんだ家光の推挙により従四位下を贈位された。1万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かったことを示すものと言える。

 元和2年(1616年)、10歳の時に父に連れられ初めて秀忠に謁見し、元和5年(1619年)、13歳で徳川家光の小姓となる。元和7年(1621年)に宗矩が家光の兵法指南役に就任してからは、父に従って家光の稽古に相伴してその寵隅も甚だ厚かったと伝わるが、寛永3年(1626年)20歳の時に、何らかの理由で家光の勘気を被って蟄居を命じられ、小田原に一時お預けの身となる。蟄居の原因となった家光の勘気自体は、早くて1年後には解けていた形跡もあるものの再出仕は許されず、その後11年に渡って江戸を離れる。その間の動向について、三厳自身は著作の中で故郷の柳生庄に引き籠り、亡き祖父・宗厳や父が当地に残した口伝や 目録について研究し、時に祖父の門人を訪ねるなどして、兵法の研鑽に明け暮れていたと書き残している。一方でこの間、武者修行等で諸国を遍歴していたとする伝説があり、後に多くの講談や創作物の材料となった。
  寛永14年(1637年)5月初旬の夏稽古が始まる頃、致仕して以来11年ぶりに江戸に帰還し、柳生の藩邸に滞在しながら、改めて父・宗矩の下で相伝を受ける。その年の秋の終わりごろ、それらの至極をまとめて伝書を著し 父に提出して講評を仰ぐ。しかし宗矩より全て焼き捨てるよう命じられたため、驚愕して当時屋敷に同居していた父の友人の禅僧・沢庵宗彭に相談したところ、沢庵から宗矩の真意を説かれた上で、焼却を命じられた伝書に加筆と校正を施される。沢庵の教示を受けた三厳が「父の以心伝心の秘術、事理一体、本分の慈味を了解し、胸中の疑念が晴れ」たとして、再度伝書を父に提出すると、宗矩も更なる精進を促すためとしながらもこれを認め、三厳に印可を授けた。
  その翌年の寛永15年(1638年)、再び家光に出仕する事を許され、江戸城御書院番に任じられた。
  寛永16年(1639年)2月14日、家光の御前にて、父の高弟・木村助九郎と弟の宗冬と共に兵法を披露する。寛永19年(1642年)2月から同年3月にかけて、謹慎していた12年間で収集した資料やそれまでに記した草稿を元に、流祖上泉信綱以来の新陰流の術理をまとめ上げ、後に代表作と評される『月之抄』を著す。正保3年(1646年)父宗矩が死去すると、遺領は宗矩の遺志に基づき、一旦幕府に返上された上で家光の裁量で兄弟の間で分知され、三厳は八千三百石を相続して家督を継ぐ。この時三厳の石高が一万石を下回ったために、宗矩が柳生藩を立藩してから11年目にして、柳生家は大名から旗本の地位に戻った。宗矩生前の三厳は「強勇絶倫」で皆畏れて従う風があったが、家督を継いで以後は寛容になり、政事にも励み、質実剛健な家風を守り、奴婢にも憐みをかけて処罰することもなかったという。その後間もなく役目を辞して柳生庄に引き篭もったとも言われるが詳細は不明。
  慶安3年(1650年)鷹狩りのため出かけた先の弓淵(早世した弟友矩の旧領)で急死。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人達も尋問を受けたが死因は明らかにならないまま、柳生の中宮寺に埋葬された。享年44。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺および奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。三厳には嗣子がいなかったものの、亡き父・宗矩の勤功を理由に取り潰しは避けられ、弟の宗冬が自身の領地を返上した上で三厳の跡を継ぐ事を許された。三厳の遺児である二人の娘(長女・松、次女・竹)は、家光の命により宗冬が養育することとなり、後にそれぞれ旗本の元に嫁いでいる。三厳の妻(大和の豪族・秋篠和泉守の娘)は 貞享四年(1687年)まで生き、死後は麻布の天真寺に葬られたという。
  若い頃に片目を失明したという伝説があるが、肖像画とされる人物は両目が描かれており、当時の資料・記録の中にも十兵衛が隻眼であったという記述は無い。

柳生友矩 列堂義仙

 寛永4年(1627年)に初めて家光に謁見し、その小姓となる。寛永11年(1634年)の家光の上洛に供奉し、同年7月に徒士頭となる。8月には父・宗矩に並ぶ従五位下刑部小輔に叙任し、11月には山城国相楽郡の2000石の領地を授かるなど厚遇を受ける。その後、病にかかって職を辞し、父・宗矩の封地・柳生庄で静養するが、寛永16年(1639年)に27歳で死去した(『寛政重修諸家譜』では38歳とされる)。墓所は芳徳寺にある。また、異母弟の宗冬は菩提を弔うために、友矩の居館を一寺とし、遺領の南大河原に十輪寺を建立している。
  柳生家の家譜である『玉栄拾遺』では、当時の人々から将来必ず股肱の臣となると言われたとある他、「性質無双文才に富み、又新陰の術に長したまふ」と評している。家光の寵遇厚く、13万石(あるいは4万石とも)を与える旨の御墨付きを受けたという記述もあるが、事実を疑う意見もある。

 江戸時代の臨済宗の僧。柳生家菩提寺の芳徳寺の第一世住持となった。
 義仙は柳生宗矩が側室との間に儲けた子で、12歳のとき父を亡くすが、その前後に父の意志により京都の大徳寺で出家、天祐紹果に入門して僧となり名を義仙と改め、列堂和尚と称した。
 さらに宗矩が亡父柳生宗厳(石舟斎)を弔うため沢庵を招いて柳生に建立した菩提寺の芳徳寺の住持に定められ、芳徳寺に移る。また、宗矩の遺志に基づく徳川家光の内意によって、宗矩の遺領1万2500石のうち200石が芳徳寺に寺領として分与された。
 1646年に父・宗矩が亡くなって間もなく、1650年には父の遺領の大半を相続していた長兄の三厳(十兵衛)が若くして没し、次兄の宗冬が代わって柳生家を継承するが、宗冬も義仙と比べると22年と大きく年齢の離れた兄で、気性の激しかった義仙は宗冬と不仲であったと言われる。義仙は僧職に収まりきれない奔放な気性であったらしく、長く柳生を出奔して芳徳寺を留守にしていた。これに激怒した兄の宗冬が、義仙を追放して代わりの者を住持に立てるよう指示した遺言状が残っている。しかし、義仙が実際に追放されたかどうかは定かではなく、現在も芳徳寺では列堂和尚(義仙)を第一世住持に数えている。のちには大徳寺の住持に就任したこともある。

柳生宗冬 柳生宗春

 寛永5年(1628年)、14歳の時に徳川3代将軍・徳川家光の小姓となり、やがて書院番に任じられて300石を拝領する。病弱であったために少年時代は稽古を嫌うところがあったというが、寛永9年(1632年)、18歳の時に喜多十太夫の申楽能の入神の芸を見て感じ入るものがあって日夜兵法に精進するようになり、寛永16年(1639年)には、将軍・家光の兵法上覧に、剣豪として知られる長兄・柳生十兵衛や父の代表的な高弟・木村友重(助九郎)と並んで抜擢されるまでになった。
 正保3年(1646年)、父・宗矩が死去すると、その遺言によって遺領1万2千500石を兄・三厳との間で分け与えられ、宗冬は4千石を相続して柳生家から分家した。この時家督を継いだ三厳の石高が1万石を下回ったために、柳生家は宗矩が柳生藩を立藩して以来11年目にして大名から旗本の地位に戻った。
 父の死から4年後の慶安3年(1650年)に兄・三厳が急死する。三厳には嗣子がいなかったものの、亡き宗矩の勤功を理由に取り潰しは避けるよう取り図られ、宗冬は4千石を返上した上で兄の遺領を継ぎ、柳生家当主となった。
 翌慶安4年(1651年)1月に将軍家光が病に倒れると、武芸好きの将軍を慰撫するため諸国の武芸の達人が江戸城に集められ、3ヶ月間にわたって家光の御前で武芸を披露する上覧会が開かれた。宗冬はこの期間中、2月11日と2月29日に家光に謁見し、3月2日および上覧最終日となった4月14日には、家光や諸大名の前で武芸を披露している。その6日後の4月20日に家光が没する。
 家光の死から5年後の明暦2年(1656年)、宗冬に対し16歳になった将軍家綱へ新陰流を伝授するよう命が下り、名実ともに父・宗矩の死後空席となっていた将軍家兵法指南役となる。家綱は病弱で生涯病に臥せがちであったが、宗冬の指導の下、剣術を愛好すること甚だしく熱心に稽古を重ねるようになった。
 明暦3年(1657年)1月3日、家綱より召されて剣術始めの儀を取り行い、これ以降家綱時代の恒例行事となった。寛文元年(1661年)には、館林宰相・徳川綱吉からも入門の誓紙を受けて指南するようになる。
 寛文4年(1664年)家綱より正式に新陰流入門の誓紙を受け、翌寛文5年(1665年)に印可を与えた。同年1月3日の剣術始めの儀では、16歳となった嫡男・宗春も共に家綱の相手を務め、これ以後家綱の稽古の際には常に宗春も相伴するようになった。
 寛文8年(1668年)、大和国山辺郡1700石の加増により総石高1万石となり、父の死から22年ぶりに柳生家は大名に復帰した。
 嫡男・宗春の死から3ヶ月後の延宝3年(1675年)4月、病に倒れる。将軍・家綱からは老中・久世広之や若年寄・土井利房らが見舞いに遣わされ、治療の限りが尽くされたが、遂に回復することはなく、同年9月29日、いよいよ病が重くなったことを自ら悟ると、次男・宗在や家臣たちを集めて子細を遺言書に書き残し、その晩多くの門弟や親族に見守られる中、この世を去った。享年61。遺体は遺言に基づいて火葬され、江戸の広徳寺に埋葬された。また、故郷である柳生庄にも分骨され、末弟・列堂が住持を務める芳徳寺に墓所が建てられた。

 柳生家は代々徳川将軍家の剣術指南役を務める家系として知られ、宗春も4代将軍徳川家綱の指南役である父・宗冬より家伝の新陰流を学んだ。
 明暦2年(1656年)初めて家綱に拝謁し、寛文5年(1665年)正月の稽古始めで父と共に家綱の稽古相手を務めると、以後家綱の稽古には常に相伴するようになった。
 柳生家累代の記録『玉栄拾遺』によるとその人柄は「性質優美にして若くして人の鑑」と賞されたといい、新陰流の術に達したほか、和歌も好んだとされる。やがて父・宗冬は芝新堀の別邸に移り、宗春は虎ノ門の本邸にあって、共に門人を分け合って新陰流を教授するようになった。宗春が指導する虎ノ門には多くの門生が集い、長者として慕われたというが、延宝3年(1675年)1月13日に突如疱瘡を患い、同年2月4日に家督相続を前にして27歳の若さで早世した。
 遺体はその日の内に江戸の広徳寺に埋葬され、後に柳生家の菩提寺である柳生庄芳徳寺にも墓所が作られた。
 将来を嘱望された嫡男の死は宗冬に衝撃を与え、宗春の死から3カ月後の延宝3年(1675年)4月に宗冬は病に倒れ、同年9月に死去した。柳生家の家督は宗春の弟・宗在が継いだが、宗在も36歳で早世したため、その跡を当時16歳に成長していた宗春の子・俊方が継いだ。

柳生俊方 柳生俊平

 延宝4年(1676年)2月24日、早世した父・宗春の代わりに家督を継いだ叔父・宗在の養嗣子となった。元禄2年(1689年)、宗在の死去により跡を継いだ。当初の諱は宗弘。享保元年9月28日、俊方に改名した。元禄6年(1693年)1月28日、幕府の奥詰衆に加えられる。享保15年(1730年)4月4日、58歳で死去した。墓所は東京都練馬区桜台の広徳寺と奈良県奈良市柳生町の芳徳寺。
 俊方は3度にわたり養嗣子を迎えており、1人目の宗盈は廃嫡、2人目の矩美は早世し、3人目の俊平が跡を継いだ。
 正徳2年(1712年)、村田伊十郎に柳生姓を授けた。伊十郎は柳生久寿と改名、子孫は旗本の家系となった。

 先代藩主・柳生俊方の2人目の養嗣子・矩美が早世したため、享保6年(1721年)11月13日に養嗣子として迎えられた。同年11月28日、将軍徳川吉宗にお目見えする。享保15年(1730年)5月29日、養父・俊方の死去により跡を継ぐ。同年12月18日、従五位下但馬守に叙任する。後に飛騨守に改める。寛保2年(1742年)11月16日、養嗣子の俊峯に家督を譲って隠居し、明和5年(1768年)3月18日に70歳で死去した。
柳生俊峯 柳生俊則
 享保18年(1733年)12月22日、先代藩主の柳生俊平の養嗣子となる。享保19年3月13日、将軍徳川吉宗にお目見えする。寛保2年(1742年)11月16日、養父俊平の隠居により跡を継いだ。同年12月18日、従五位下但馬守に叙任する。しかし、宝暦元年(1751年)12月12日、江戸藩邸の失火により処罰されている。宝暦13年(1763年)8月29日に死去し、跡を養嗣子の俊則が継いだ。  松前で生まれる。延享4年(1747年)1月15日、将軍徳川家重にお目見えする。宝暦3年(1753年)7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となる。同年9月18日、将軍徳川家重にお目見えする。宝暦13年(1763年)10月22日、養父・俊峯の死去により跡を継いだ。同年12月9日、従五位下采女正に叙任した。天明8年(1788年)、将軍徳川家斉の剣術指南役を務めている。文化4年(1807年)8月5日、養嗣子の俊豊に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。
柳生俊益 柳生俊久

 高家旗本・武田信之の5男。文久2年(1862年)9月25日、先代藩主で兄の俊順が死去したため、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月16日、従五位下但馬守に叙任する。
  幕末の動乱期の中でははじめは佐幕派で、京都警備や摂津の海上警備,大坂警備などを務めている。しかし藩内で尊皇派と佐幕派が対立し、一時は将軍の剣術指南役ということから佐幕派が優位に立ったが、後に尊皇派が盛り返して血を見る騒動にまで発展し、最終的な藩論は尊皇に決した。慶応4年(1868年)1月25日に上洛して恭順の姿勢を示した。
   明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となる。このときに俊郎と改名した。その後、藩政改革を行なった。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により免官される。明治17年、子爵となった。大正4年(1915年)10月に隠居し、養子の俊久に家督を譲った。昭和2年(1927年)9月2日、77歳で死去した。

 越前勝山藩主・小笠原長守の3男として生まれ、1892年、子爵・柳生俊郎の養子となり俊久と改名。1915年10月8日に養父が隠居したことに伴い、同月20日、子爵を襲爵した。
  陸軍士官学校に入り、1888年7月28日、歩兵少尉に任官。以後、歩兵第1連隊中隊長,歩兵第5連隊中隊長,第1師団副官,歩兵第1連隊大隊長,松本連隊区司令官などを歴任。1913年8月31日、歩兵大佐に昇進し、1915年8月10日に待命となり、同年10月15日、予備役に編入された。
  1919年5月、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し、研究会所属で活動して、1932年7月まで二期在任した。その他、亀戸天神社司,若葉女学校長を務めた。