<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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池田利政 池田政言

 文禄3年(1594年)、三河国吉田にて池田輝政の9男(実は4男)として誕生した。嫡母は父の継室・督姫(徳川家康の娘)、生母は側室の安藤氏。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、父・輝政が播磨国姫路藩に移封されると、利政は船上城の城代となり、4170石(後に加増され5000石)を知行した。また、長兄の利隆に従い大坂の陣に参戦した。元和3年(1617年)、甥の光政の因幡国鳥取藩への移封に伴い、汗入郡逢坂に移住した。さらに、寛永9年(1632年)の光政の備前国岡山藩への移封で岡山に移った。
 寛永16年(1639年)8月11日、京都で死去した。46歳。墓所は岡山県備前市にある和意谷池田家墓所。 

 備前岡山藩主・池田光政の次男で庶子として誕生した。慶安2年(1649年)、池田政信(岡山藩家老)の養嗣子となる。寛文12年(1672年)、父・光政の隠居と兄・綱政の藩主就任により、2万5,000石を分与されて支藩である鴨方藩を立藩した。藩政においては文武両道で和歌に優れ、道徳ある善政を敷いたと、父の光政と同じく名君として高く評価されている。 
池田政善 池田利恭

 6代藩主・池田政養の4男として誕生した。母は側室の岩田氏。諱は初め政広、のち政敏,政善。
 文政7年(1824年)、兄で先代藩主の池田政共が早世した際、その末期養子として跡を継いだ、というのが公式上の記録である。文政9年(1826年)1月28日に11代将軍・徳川家斉に初御目見し、元服する。同年5月には藩主として初めて岡山へ帰国し(鴨方藩は岡山藩の支藩であり、藩主は岡山城下に居住)、翌文政10年(1827年)から諱を政善と名乗るようになった。
 弘化3年(1846年)10月4日、在所で死去したものの、鴨方藩は幕府に死亡届けを出さなかった。病弱な嫡子・政樹の相続を避けようとしたためと考えられる。弘化4年(1847年)3月13日、病気を理由に幕府に参勤交代の延期を願う。同年3月17日、政樹の廃嫡願を提出する。同年4月26日、急養子願を提出し、池田政詮(後の池田章政)の相続を願う。同年4月27日(1847年6月10日)、幕府に死亡届けを出した。公的には、同日に37歳で死去したことになっている。

 宝永2年(1706年)12月22日、日置忠明の6男として岡山に生まれる。鳥取藩重臣・池田知定の養子として家督を継いでいた知至が、若桜藩主・池田清定の末期養子となったため、代わって知定の家督を継ぐこととなった。後に加増を受けて禄高3000石となり家老を務めた。延宝7年(1761年)没。享年56。