土岐氏、斎藤氏の家臣として仕えた。1556年(弘治4年)4月、斎藤道三と子の斎藤義龍が戦った長良川合戦では道三方に味方した。そのため戦後、重元留守中の大御堂の屋敷に義龍勢が来襲したが、妻の妙海大姉,子の重治,重矩が奮戦してこれを退けた。 1558年(永禄元年)、子の重治と共に菩提山の岩手弾正忠誠を攻めてこれを破り、新たに菩提山城を築いて居城とした。六千貫を知行した。 こののち近隣の不破氏と不仲になり、翌年には不破光治の襲撃を受けたが、家臣竹中善左衛門の活躍によってこれを退けた。 1560年(永禄3年)12月、六角義治の求めに応じて近江に出陣し浅井氏と戦った。なお、1561年(永禄4年)2月にも近江に出陣して戦功を挙げたため、義治より感状を受けた。 1562年(永禄5年)、64歳で病没。美濃国岩手村禅憧寺に葬られた。
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永禄3年(1560年)、父の死去または隠居により家督を相続し、美濃の国主斎藤義龍に仕え、斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えた。 この頃、尾張国の織田信長による美濃侵攻が激しくなるが、重治の活躍で何度か織田勢を破ったとされている。 ところが、主君・龍興は酒色に溺れて政務を顧みず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を遠ざけていた。このため永禄7年(1564年)2月、弟・重矩や舅・安藤守就とともに龍興の稲葉山城を16人の部下とともにわずか1日で奪取した。織田信長は重治に稲葉山城を譲り渡すように要求したが、重治は拒絶し、自ら稲葉山城を龍興に返還した。その後は斎藤家を去り、旧領の岩手に隠棲した。 永禄10年(1567年)、織田信長は浪人していた竹中重治を自分の家臣として登用したいと考え、木下藤吉郎秀吉に勧誘を命じ、秀吉は三顧の礼で重治を誘った。 後に信長と浅井長政が敵対関係になると、重治はかつて長政の家臣時代にあった浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍した。姉川の合戦後は信長直臣から秀吉の与力へと転じた。 天正6年(1578年)、荒木村重との有岡城の戦いでは、秀吉幕僚の黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが城内で捕縛されたため、信長は孝高の嫡男の松寿丸(後の黒田長政)殺害を秀吉に命じたが、重治は秀吉に偽の首を進呈させ松寿丸の命を助けた。助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている。 天正7年(1579年)4月、播磨三木城の包囲中に病に倒れた。秀吉は重治を京都で療養させたが、重治はすでに自らの死期を悟り、戦場で死にたいと秀吉に懇願して向城の平山に至り、陣中にて6月13日に死去した。享年36。死因は肺の病気(肺炎か肺結核)とされる。
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父の竹中重治が死去すると一族の竹中重利に後見される。羽柴秀吉の家臣として、小牧長久手の戦い,小田原征伐などに従軍する。この間に天正17年(1589年)に美濃国不破郡に5千石を授けられた。文禄の役では名護屋城に駐屯、慶長の役では軍目付として朝鮮にわたった。朝鮮出兵の戦功により、河内に千石加増される。 関ヶ原合戦では、当初西軍に属して犬山城の石川貞清を援助するが、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わる。山内一豊らに倣い、菩提山城を徳川家康に差し出した。幼なじみの黒田長政軍に合流して最激戦地で奮戦。9月19日には伊吹山中で、西軍の有力武将小西行長を捕らえる功を挙げ、家康から感状を得る。関ヶ原の地が竹中氏の領地であった事などから戦没者の供養料として1千石の米を下賜され、美濃岩出山6千石を安堵される。この前後に菩提山城から竹中氏陣屋に拠点を移す。石高から身分は旗本ながらも、交代寄合として大名と同じく参勤交代を命じられた。 大坂の役でも徳川方として戦い、二条城の普請も行う。江戸において59歳で死去。墓所は泉岳寺にある。
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後世、竹中重治の智謀の代名詞と伝えられる永禄7年(1564年)2月の稲葉山城奪取の際には、稲葉山城に人質として入っていた重矩が病気を装い、兄・重治は、見舞いと称して安藤守就ら十数名とともに城内に入り、主君・斎藤龍興を油断させた隙に稲葉山城を占拠したといわれる。 永禄10年(1567年)の斎藤家滅亡後は、兄と共に織田家に仕える。 元亀元年(1570年)、姉川の戦いに参陣。浅井氏の勇士・遠藤直経が織田軍の武将を装って信長の本陣に入り込み、信長の首を狙おうとしたが、旧知であった重矩が直経の正体を見破り、逆に直経を討ち取るという武功を挙げた。 天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去した後、美濃不破郡長佐村で起こった郷士一揆と戦って戦死した。享年37。
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1579年(天正7年)、半兵衛重治が死去した後に独立し、直に秀吉に仕える。独立の当初は美濃国長松城3000石を領していた。娘が関白豊臣秀次の側室となって、豊臣家の男子をもうけている。 小田原征伐には馬廻として参陣した。1594年(文禄3年)、豊後国東郡高田で1万3000石を領し、大名として諸侯に列した。朝鮮出兵では目付として参陣する。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍に与して近江国瀬田橋の守備や丹後国田辺城攻めに加わったが、後に隣国の黒田如水に誘われ東軍に就いたために所領を安堵された。 のちに豊後府内藩に移され大分府内城の大改修を行い、現在の規模とした。 1615年(元和元年)10月16日、54歳で死去。
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元和元年(1615年)に父の後を継いで藩主となり、配流された松平忠直を府内に迎えている。寛永6年(1629年)、前任である水野守信に代わり長崎奉行に着任。彼を長崎奉行に推したのは土井利勝であり、それまでの長崎奉行は幕府の3000石級の旗本から選ばれるのが慣例であり、大名クラスの彼が抜擢されたのは異例であったとされる。彼の時代に壮絶なキリシタンの弾圧が行われた。穴吊りなどの拷問や踏絵が初めて雲仙で行われたという記録が残っている。 寛永9年(1632年)、徳川家光が最初の鎖国令を発すると、これと連動するかのように竹中重義は密貿易など職務上の不正を訴えられた。調査の結果、切腹を命じられ、寛永11年(1634年)2月22日、嫡子源三郎と共に浅草の海禅寺で切腹、一族は隠岐に流罪となった。これにより竹中家の宗家は改易・廃絶となった。
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竹中重治の子孫で竹中主悦助の長男。外国奉行、神奈川奉行を歴任し、安政6年(1859年)には安政の大獄で、水戸藩の茅根伊予之助に引導を渡す。文久元年(1861年)、病気を理由に隠居し、家督を分家の竹中重固に譲る。郷里美濃岩手(現岐阜県垂井町)の師弟教育にも尽力し、菁莪堂を開設した。出身者にはのちの衆議院議員、神田孝平がいる。 明治維新の際、養子・竹中重固が逆賊の扱いを受けると大垣藩を経由して重固を勘当義絶し、朝廷に謝罪恭順した。そのおかげで領地を没収された後、地元美濃岩手300石を朝廷より賜った。 明治3年(1871年)、竹中黄山と改名し、翌年帰農。領地を失ったことから北海道に渡り、入植するが、のちに郷里美濃岩手に戻った。明治13年(1880)、帰農の際に除族された士族復帰を嘆願し、翌年、士族復帰を果たす。明治16年(1883年)、分家竹中萬寿蔵の二男、賢三(のちの岐阜県会議員竹中重時)を養子に迎えた。菩提寺は垂井町岩手の禅幢寺にある。
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父元幸の死後に家督を相続するが、のち、本家である旗本交代寄合(美濃不破郡岩手5000石)竹中重明の養嗣子となる。元治元年(1864年)に大番組入りし、幕府陸軍創設後は陸軍奉行として天狗党征伐や長州征伐で活躍する。慶応3年(1867年)、若年寄並陸軍奉行に就任した。 慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いでは主戦派として伏見奉行所へ出陣するが、幕府軍敗北によって罷免・官位剥奪される。一時は出家したものの、のちに純忠隊を結成し、彰義隊の支部隊として新政府に交戦した。彰義隊の敗退後は輪王寺宮を奉じて奥羽を転戦し、のちに蝦夷共和国の海陸裁判所頭取に就任した。明治2年(1869年)、箱館戦争終結前に英国汽船で東京へ向かい自首した。 維新後は領地没収・除族のうえ、福岡藩預り、のちに竹中家預りに処される。明治4年(1871年)、養父重明とともに北海道に入植する。明治5年(1872年)、士族の困窮を憂いて北海道殖産事業に関する建白書を提出。明治6年(1873年)に東京府に出仕したが、ほどなく辞職。その後は実弟元賀が経営する蓬英社に入社し、殖産事業に尽力した。 明治24年(1891年)死去、享年64。菩提寺は東京都品川区の泉岳寺。
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